ストア派哲学の創始者ゼノンの生涯と言葉【ストア派の由来】

ゼノン(紀元前335~263年)は、ストア派の創始者として知られている。

彼は犬儒学派(キュニコス派)のクラテスに学び、またメガラ派のスティルポンとアカデメイア派のクセノクラテスに、それぞれ十年ずつ師事した。

ストア派哲学の創始者ゼノン

ストア派の由来

ストア派の名の由来は、ゼノンが「ストア・ポイキレー」(彩色された柱廊)を行きつ戻りつしながら講義を行ったことに由来している。ゼノンがその場所を選んだのは、多くの人が集まることのできる場所だったからである。

しかしエピクロスは彼の弟子たちを「ゼノンの徒」と書簡の中で呼んでいるために、徐々に後世となってから「ストアの徒」や「ストア派」という呼び名が定着したようだ。

クラテスとの出会い

ゼノンはキュプロス島のキティオンの人である。このキティオンは、フェニキアからの移民を受け入れていたギリシア人の都市で、ゼノンはフェニキア人であるとされている。

ゼノンの最初の師であるクラテスとの出会いについて、ディオゲネス・ラエルテイオスの『ギリシア哲学者列伝』は次のような話を伝えている。

ある時、彼がフェニキアから紫の染料を船荷にして航海していた途中、船が難破してしまった。彼はそのままアテナイに行ったが、そこの本屋でクセノポンの『ソクラテスの思い出』を読んでいるうち、その内容に魅せられ、本屋の主人に「ここに書かれているような人はどこに行けば会えるか」と尋ねた。

そこへちょうどクラテスが通りかかったので、本屋の主人はゼノンに、「あの人についてゆけばいい」と言った。

クラテスはテーバイ出身の人で、異説もあるものの、一般的には「樽のディオゲネス」(犬のディオゲネス)の弟子とされ、犬儒派(犬儒学派・キュニコス...

ゼノンの慎み深さ

ただしキュニコス派の恥を恥とも思わぬような振る舞いは、慎み深いゼノンには合わなかったようで、クラテスはそうしたゼノンの性格まで矯正しようとした。

クラテスは「はうちわ豆のスープ」を入れた鉢をゼノンに渡し、街中を通り抜けるように命じた。するとゼノンが恥ずかしそうにそれを隠したので、クラテスは鉢を叩き割ると、ゼノンは両足にスープをこぼしながら逃げ出す。

その背中にクラテスは「なぜ逃げるのかね、フェニキアの小僧、何も恐ろしい目にあったわけでもないのに」と言ったという。

様々な師につく

しばらくゼノンがクラテスに学んだ後、メガラ派のスティルポンのところへ行くと、クラテスは弟子を連れ戻そうとする。

その時、ゼノンの着ている衣を掴んで引っ張ったクラテスに、彼は「哲学者を捕まえる利口なやり方は耳を通じて掴むことです。私を連れ戻したいなら、私を説得するようにして下さい」と言った。

結局、彼は戻らず、スティルポンのもとで十年学んだ。また、メガラ派のディオドロス、アカデメイア派のクセノクラテスとポレモンにも学んだという話も、『ギリシア哲学者列伝』は伝えている。

アンティゴノス王との交わり

ゼノンは当時マケドニア王であったアンティゴノス二世(前319~239・在位は前277~239)とも交流があった。アンティゴノス二世は、マケドニアのアレキサンダー大王の部下であったアンティゴノス(一世)の孫にあたる。

アンティゴノスはゼノンに大変な好意を寄せ、アテナイに来れば必ずゼノンの講義を聞きに行った。またアンティゴノスは、「自分だけでなく、マケドニア人全員の教師になることができる」と述べて、ゼノンをマケドニアにも招いたほどだが、ゼノンは高齢を理由にそれを丁重に断り、代わりに弟子のペルサイオスを派遣した。

また、こうして派遣されたパルサイオスにはこんな話が伝わった。ゼノンの学派では「富」を「善悪に無関係なもの(どうでもいいもの)」と教えていた。

ある時、アンティゴノスは彼を試そうと彼の持っている土地が敵に荒らされたと嘘の報告をする。悲痛な顔をしたパルサイオスを捉え、アンティゴノス王は「ほらね、富はどうでも良くないだろう」と言ったという話だ。

ゼノンの言葉

ゼノンの名声は、その名が「自制心のある人」の代名詞となるほどのものだった。例えば当時「哲学者ゼノンよりも、ずっと自制心のある」という言い方がされたという。

ゼノンが言った言葉としては、ディオゲネス・ラエルテイオスの『ギリシア哲学者列伝』は、次のようなものを伝えている。

哲学者たちでさえ、その大部分の者は、多くの事柄について賢くないし、また、些細なその時々の出来事については無学な者である。

若者たちは歩行、姿勢、衣服の点で充分な節度を保つべきである。

知識を獲得するのに思い込みほど邪魔になるものはない。

美しさ(道徳的な立派さ)とは節制の(咲かせる)花である。

ゼノンの弟子

ゼノンの弟子には、「善悪に無関係なもの」という概念を導入したアリストン、「転向者」と呼ばれたディオニュシオス、ゼノンからストアの学園を受け継いだクレアンテス、ゼノンの師後クレアンテスの弟子になったスパイロスといった者がいる。

ストア派哲学の創始者ゼノンには多くの弟子がいたが、それを継承した二代目の学頭がクレアンテスである。クレアンテスは学問的な資質には欠けることが...

「転向者」ディオニュシオス

ディオニュシオスは当初ゼノンの下で学んでいましたが、後に快楽主義のキュレネ派に転向したために「転向者」とあだ名された。

ゼノン門下の時から師からは信頼されていなかったらしく、ディオニュシオスがゼノンに「なぜ私だけ過ちを正してくれないのですか」と不満をもらした時、ゼノンは「君のことを信用していないからだよ」と答えた。

彼がストア派から離れた理由は、眼病を患って苦しんだために、苦痛を善悪に無関係だと考えられなくなった為といわれている。

転向後は売春宿に通うなどして大っぴらに快楽を謳歌した。ディオニュシオスは80歳で絶食して命を絶ったと伝えられている。

ゼノンの死

ゼノンの最期については、次のようだったと伝えられている。

既に老齢だった彼が学園から出ていく時、つまずいて転び、足の指を折ってしまった。すると彼は大地を拳で叩き、『ニオベ』という劇のセリフである「いま行くところだ、どうしてそう、わたしを呼び立てるのか」という言葉を口にすると、自ら呼吸を止めて死んだという話である。

また、ゼノンの死の知らせを聞いたアンティゴノス王は「何という素晴らしい観客を余は失ったことか」と言って嘆き悲しみます。人が何故ゼノンをそれほど尊敬しているのかと訊くと、アンティゴノスは「あの人は余から多くの贈り物を貰ったが、決して高慢にもならず、また卑屈にもならなかった」と答えた。

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