横山やすしと竹垣悟(五仁會)は義兄弟だった 盃をする2人の画像

伝説の漫才コンビ「横山やすし・西川きよし」の「横山のやっさん」として知られる横山やすしは、生前、現在はNPO法人「五仁會」代表で、現役でヤクザをしていた竹垣悟の義兄弟だったそうです。

「五仁會」代表の竹垣悟はツイッターでその盃をした時の写真を公表しており、そこには確かに、兄・竹垣悟、弟・横山やすしとして盃を交わす2人の姿が映されています。

五仁會の竹垣悟氏


出典:ツイッター

竹垣悟(たけがき さとる)は1951年3月21日生まれ、兵庫県姫路市の出身。

1972年頃に山口組竹中組・坂本会会長の坂本義一の盃を受けて渡世入りします。坂本会では若頭を務めたことも。また義竜会を結成し、会長に就任します。

1979年、後の四代目山口組組長・竹中正久から盃を貰い竹中組の直参になりました。

竹中組では組長秘書、若頭補佐を務めます。

1989年、竹中組の(射殺された四代目山口組組長・竹中正久の弟)竹中武が一和会との和解を不服として山口組から脱退すると、竹垣は竹中組を離脱して中野会に移籍しました。

中野会では若頭補佐を務めます。

1997年、中野会が宅見勝組長暗殺をめぐる疑惑で山口組から絶縁されると、竹垣は中野会から離脱し、山口組直系組織の古川組に移籍、古川雅章組長の舎弟となり、舎弟頭補佐を務めます。

2005年、古川組長が引退して二代目を古川恵一が継承すると、盃を拒否して破門処分になり、引退して堅気になりました。

2012年にNPO法人の「五仁會」を立ち上げて代表に就任、暴力団からの離脱をした組員の更生を援助する活動に注力しています。

横山やすしと竹垣悟(五仁會)は義兄弟
盃をする2人の画像

その竹垣悟が1994年、中野会の幹部(若頭補佐)だった時代に、義竜会の事始めで横山やすしと盃を交わした写真が残されています。

竹垣悟氏自身が、ツイッターで写真を公表しています。

この写真は当時、FRIDAYにすっぱ抜かれて大騒ぎになったといいます。

2枚目の写真では背景に、「天照大御神」の文字を中央にして、右側に「兄 竹垣悟」、左側に「弟 横山やすし」と大書されています。

ここから五分の盃ではなく、兄を竹垣悟とする「兄・弟」の盃だったことが分かります。

ちなみに2人は、竹垣悟氏が1951年3月21日生まれ、横山やすしが1944年3月18日生まれで、年齢でいえば横山やすしの方がかなり年上になります。

撮影が1995年ごろということになれば、やすしは1996年1月21日に死去しているので、死の少し前に盃を交わしたことになります。

他にも竹垣氏はこのようなツーショットを公開しています。

竹垣悟・横山やすしのツーショット写真

全部のツーショット写真を並べてみます。

横山やすしと竹垣悟が盃を交わした経緯は?

横山やすしと竹垣悟が盃を交わした経緯は『実話ナックルズ』2018年4月号の記事によれば、このようなものだったそうです。

横山やすしは当時、借金だらけになって困っており、借金取りが来た時に、「喧嘩太郎」と呼ばれた山口組の超武闘派組長「中野太郎」の名前を出して、「ワシのバックについとるぞ」と言って追い返していました。

もちろんそれは事実ではないので、中野太郎が子分の竹垣に「俺の名前は出すなとやすしに言っとけ」と言い、そのようなやり取りから結果的に盃を交わすことになったといいます。

要は「中野太郎」の名前の代わりに自分(竹垣悟)の名を心置きなく使えるように、ということだったようです。

インタビュアーは「勝手に『中野会』の名を使われて迷惑をかけられたのに面倒を見たのですか?」と尋ねると、竹垣は「自分にとって、やっさん(横山やすし)は雲の上の人。その人が雲の上から落ちて私らのところに来たのですから、男気とお金があったら手を差し伸べます」ということを話しています。

竹垣はやすしが姫路に来るたびに5万か10万ほど渡し、やすしの自宅がある摂津まで若い衆に車で送らせていたといいます。

竹垣は「若いもんからしたら嬉しい役目」であり、みんなが嬉しいから、いいお金の使い方だと感じていたそうです。

以上になります。