柳田國男の諸著作とそれに対する小林秀雄と三島由紀夫の批評

小林秀雄は『信ずることと知ること』において、三島由紀夫は『小説とは何か』の中で、それぞれ柳田國男の諸著作について言及して称えている。

柳田國男の『遠野物語』

柳田國男が岩手県遠野に伝わる逸話や伝承を収集して記録した『遠野物語』は全体としてもそれほど長い作品ではないが、更にそれぞれのエピソードが短い節に区切られている。

三島由紀夫の『遠野物語』への批評

三島が特に推しているのは、第22節の亡くなった老女が親族の前に現れる話と、第11節の息子が嫁と折合の悪い母親を殺す話だ。

第22節については三島は、親族が「これは夢か現(うつつ)か」と息を詰まらして見守る中、現れた死者が触れた「炭取」が動く場面の文章に感嘆している(『炭取』とは炭を小出しにして入れておくための容器である)。

私が「小説」と呼ぶのはこのようなものである。(略)

しかもその力は、長たらしい叙述から生まれるものではなくて、こんな一行に圧縮されていれば十分なのである。

また三島は第11節の「嫁と折合のわるい母を殺すせがれの物語」を「プロスペル・メリメも三舎を避ける迫力と簡潔の極み」と激賞している。

序文は「名文中の名文」

そして三島は『遠野物語』の序文を「名文中の名文」と称えて引用している。

天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽くちりたち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊と云ふは鹿しかの舞なり。(中略)笛の調子高く歌は低くしてかたわらにあれども聞き難し。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひは走れどもなお旅愁を奈何いかんともするあたはざりき。

三島が『遠野物語』に言及している評論『小説とは何か』は新潮文庫の『アポロの杯』に収録されている。

小林秀雄の『遠野物語』評

小林秀雄も講演録である『信ずることと知ること』で柳田について言及し、『遠野物語』の第61節を引いて、「伝説に知性の不足しか見えない眼は、如何に洞(うつ)ろなものかは、すぐ解るだろう」と述べている。

『遠野物語』の第61節はこのような話だ。

白鹿(はくろく)は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟(たたり)あるべしと思案せしが、名誉の猟人(かりうど)なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸(たま)を取り出し、これに蓬(よもぎ)を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。

柳田國男の『山の人生』

柳田の『山の人生』の本文冒頭には、「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい」という言葉で始まる、山に住んでいた男が二人の子供を殺す話が書かれている。

今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斬り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍(かたわら)へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。
この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大な人間苦の記録も、どこか長持(ながもち)の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

小林の『山の人生』への言及

これについて小林はこのように述べている。

彼らは、父親の苦労を痛感していた筈である。自分達が死ねば、阿爺(おとう)もきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。(略)

みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。そんなものまで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。

『遠野物語』『山の人生』

『遠野物語』と『山の人生』は岩波文庫、あるいはウェブ図書館の「青空文庫」でも読むことができる。

柳田國男の『故郷七十年』

しかし私が個人的にもっとも心を打たれたのは、小林が引用している『故郷七十年』の中のエピソードだ。小林の原文から、読みやすいように改行を施して引用する。

その頃、柳田さんは茨城県の布川という町の、長兄松岡鼎さんの家にたった一人で預けられていた。その家の隣に小川という旧家があって、非常に沢山の蔵書があったが、身体を悪くして学校にも行けずにいた柳田さんは、毎日そこへ行って本ばかり読んでいた。
その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこへ二三本樹が生えていて、石で作った小さな祠があった。その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀ってあるという。柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。
ある日、思い切って石の扉を開けてみた。そうすると、丁度握り拳くらいの大きさの大きい蠟石が、ことんとそこに納まっていた。実に美しい珠を見た、とその時、不思議な、実に奇妙な感じに襲われたというのです。
それで、そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見上げた。実によく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきわめくのが見えたと言う。
その頃、自分は十四でも非常にませていたから、いろんな本を読んで、天文学も少しは知っていた。昼間星が見える筈がないとも考えたし、今ごろ見える星は自分等の知った星ではないのだから、別にさがしまわる必要もないとさえも考えた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。
その時鵯(ひよどり)が高空でぴいッと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。そこで柳田さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。