柳川組|鬼頭組との西成抗争|飛田新地での伝説の100対8の戦いとは?

「殺しの軍団」といわれた柳川組といえば、西成でまだ小規模のグループに過ぎなかった時代に、飛田新地に事務所を構える鬼頭組100人に対し、たった8人で殴り込みをかけて勝利したというのは有名な話である。

この伝説の殴り込みについて、経緯、経過、顛末などを調べてまとめた。

(正確には柳川のグループはまだ組ではなかったが、便宜上、タイトルでは「柳川一派」ではなく「柳川組」とした)

鬼頭組とは?

この100対8で負けたエピソードのせいで、鬼頭組は如何にも噛ませ犬のようなイメージになってしまっているが、実際には鬼頭組はかなり凶暴な組だった。

鬼頭組は酒梅組の系列で、組長は鬼頭清、若頭は宮本(下の名前は不明)といった。

事務所は当時、地下鉄動物園前駅の東側出口から、飛田本通を300メートルほど入った場所の東側にあったという。

最大の収益は売春であり、次いで麻薬

鬼頭組は西成一帯で数多くの麻薬密売所を持っていた

鬼頭組配下のポン引き(売春の客引き)もまた乱暴で、主要な縄張りである飛田本通一帯で客を強引に勧誘し、他の組のヤクザでさえしばしば売春宿に連れ込んで、金が払えなければ身ぐるみを剥がしてしまうことすらあった。

こうした暴力的なポン引きに下手に逆らった場合、3、4人で取り囲んで殴る蹴るの暴行を働き、そして恐喝することもあった。

当時の西成では大阪府警の機動隊30人、西成署の警ら隊15人が日没から午前2時まで非常警戒を日常化して警戒しているほど夜の治安も悪い。

鬼頭組は警察に対してもまた攻撃的で、警官が悪質なポン引きをしょっぴいたが、鬼頭組の組員たちに襲われて、後頭部をレンガで殴られて奪還されたという信じがたいエピソードすらある

柳川一派が鬼頭組と喧嘩になるまでの経緯

柳川一派と鬼頭組が衝突した理由についても、鬼頭組の方から柳川一派に喧嘩を仕掛けたかのようなイメージがあるが、実際には鬼頭組には柳川一派と喧嘩をするだけの理由はあり、彼らからすれば止むを得ざるところもあった。

柳川組が鬼頭組のカスリを取ることをシノギにする

柳川は釜山出身だが、1930年に最初は家族と大阪に来て居住した。

しかし戦時中には大分県の軍需工場の近くに居住しており、そこで終戦を迎える。

そして家族と一緒に韓国に帰る船に乗る日、喧嘩をして拘留されてしまい、船に乗ることができずにやむをえず日本に残った。

紆余曲折を経て大阪に戻った後、昭和32年12月に西成の酒梅組梅野組の梅野国雄組長の客分となった。要するに西成に来て間もなかった柳川には大坂・西成に縄張りというものがない

そこで柳川らが目を付けたのが、他の暴力団のカスリの上前をはねる、要するに鬼頭組から略奪する、という荒っぽいシノギだった。柳川一派は鬼頭組のポン引き、売春宿、麻薬密売所を襲撃し、売上金等を略奪して食いつないだ

なぜ柳川らが鬼頭組を的にしたのかは定かではないが、『柳川組の戦闘』で飯干晃一は、鬼頭組が他のヤクザにすら良く思われていなかったため、それを的にしても苦情が出ないと考えたからではないか、と推測している。

柳川組の秋山大豪が拉致される

当然、鬼頭組の鬼頭清にすれば面白くないことだった。

そして柳川一派は小規模であることもあり、神出鬼没でゲリラのように鬼頭組の縄張りを荒らし回った。鬼頭組からすれば柳川一派と正面から戦うためには、策を講じる必要があった。

鬼頭組が柳川の秋山大豪(23)を拉致したのもそれが理由だった。

昭和32年2月のある日、鬼頭組の情報網に「柳川一派の男が西成の屋台で酒を飲んでいる」という情報が舞い込んだ。

鬼頭組の白木(下の名前は不明)ら5人はたちまち現場に急行する。

彼らは秋山を見つけるとさっそく口論が始まり、複数でかかるのは卑怯だという秋山の言葉から、白木と秋山が1対1で戦うことになった。

互いが素手の戦いは秋山の方がやや優勢に進め、秋山が白木の睾丸を蹴って、倒れた白木が秋山の足にしがみついたことで2人とも地面に転がった。

そこで秋山は白木のマウントを取って殴り出そうとするが、ここでもはや見ていられなくなった鬼頭組の男らは、ついに秋山を一斉に攻撃した。

秋山が跳ね起きようとしたところ、後頭部を思い切り蹴られて失神、羽交い絞めにされて白木らにボコボコに殴られ、秋山大豪はそのまま拉致されてしまった

梅野国雄が仲裁に入る

秋山が拉致されたという知らせはすぐに柳川らのもとに入った。

すぐに報復に行こうとする仲間たちを押しとどめ、柳川はまず飛田新地の鬼頭組の事務所に偵察をよこす。

すると鬼頭組の事務所では、夜も深いというのにこうこうと明かりが灯り、大勢の組員が集い、炊き出しまで始めていた。

また案の定、連れ去られた秋山はリンチを受け、それどころか真っ赤に焼けた火箸を押しつけられるような拷問さえ受けていた。

ここで物見からの報告を受け取ると柳川一派の福田留吉は早くも開戦を主張したが、柳川次郎は自分たちが襲撃することで秋山を死なせるようなことになってはならないと言った。

その言葉に配下の者たちも従って、まずは梅野組の梅野国雄に仲裁に入ってもらうことになった。これには梅野組が鬼頭組と同じ酒梅組系だということも大きく、鬼頭も梅野を無視できないと考えたからだった。

梅野は鬼頭組に掛け合いに行く前、自分の妻に、梅野の家で預かっている柳川らの日本刀などの道具を出さないようにと厳命した。

また柳川と言葉をかわし、もし鬼頭組が秋山大豪を放したら鬼頭組の縄張りを二度と荒らさないと約束できるかと問い、柳川はこれに「約束できる」と承諾している

こうして交渉のカードも得たために、梅野は鬼頭組事務所に出かけて行った。

「みんなで一緒に死のうや」

梅野が鬼頭組事務所に出向いてから一時間ほど経った。

柳川一派の者たちは、梅野からの報告をじりじりしながら待っていた。

徐々に不安が募ってくる。梅野まで生け捕りになったのでは? それどころか、同じ酒梅の者として、寝返ってこちらを襲う相談でもしていたら?

この最悪の想定では、梅野の家に武器を預けているということが大きな不安材料として働く。もし梅野が裏切って鬼頭組についていた場合、梅野に武器を預けたままの柳川らは、ただでさえ多人数の鬼頭組に対して素手で迎え撃たなければならないのである

実際には梅野国雄は誠実に折衝を重ね、特に柳川組を西成から撤退させる代わり、「せめて秋山大豪の入院費を鬼頭側が持つように」という条件で説得しようとしていたのである。

しかしこの条件を鬼頭清は呑まずに蹴ってしまった(後付けに過ぎないが、決戦の結果、鬼頭組が衰退することを考えれば、鬼頭にとってはこの条件は呑んでおくべきだったのである。しかし後悔先に立たずということだろう)。

それでも、そんなことがただ待つことしかできない柳川らに分かるはずもなかった。最悪の事態の想定に不安を覚え、緊張した面持ちの中、柳川らはついに鬼頭組に殴り込みをかけることを決意したのだった。

この時に出たとされるのが、例えば山平重樹も著書で取り上げている柳川次郎の「どうせ失うもんは命だけや。みんなで一緒に死のうや」という言葉である。

このエピソードだけ聞くと如何にも決戦の言い出しっぺは柳川次郎のようだが、複数の柳川組関係者に取材した飯干晃一の『柳川組の戦闘』では、最初に強く決戦を主張したのは福田留吉だという。(しかし『柳川組の戦闘』を読む限り、最大の取材源の一つが福田留吉だった可能性があり、福田本人が過去の記憶をある程度都合のいいように変えている可能性もある)

福田留吉は九州・中津から一週間前に柳川のもとに身を寄せたばかりだった。

飯干は『柳川組の戦闘』の中で福田に「兄貴。こうなったらみんなで死のう」と例の柳川の名言に類似した言葉を言わせている。(一方、柳川の例の言葉は『柳川組の戦闘』には登場しない)

昭和33年2月10日の深夜のことだった。

武器を取りに

柳川らがどやどやと梅野の家に押しかけると、梅野の妻は驚いて問いただした。柳川たちは武器を取りに来たと答えた。

しかし梅野の妻は、絶対に自分(梅野国雄)が帰るまで武器を渡すなと厳命して出かけて行ったのだった。

押し問答が続いたが、しょせん武器を出したくないのは梅野の妻一人だけ、柳川ら男たちがこぞって武器を出せと言うのを留めることはできなかった。

ただ後の福田留吉の証言によれば、武器を渡してはいけないと言われていた梅野の妻は、「どうしても拳銃だけは出せない」と言い張り、そこで柳川らは梅野の妻の顔を立てて日本刀だけを持っていくことにしたという。

福田留吉は男尊女卑の風潮の強い九州者ということもあってか、その梅野の妻の主張に反感を覚え、こっそり拳銃を腹巻の中に突っ込んだというが、実際の戦いでは、腹巻の中に拳銃を閉まっていることすら忘れるほどの乱闘だったため使う機会はなかったらしい。

このような福田の証言があるが、対して梅野国雄や梅野の妻は拳銃はその場にはなかったという話をしており、福田の記憶違いの可能性もある。

いずれにしろ、こうして武器(日本刀)を手に入れた柳川らは、かぶった黒いオーバーの中に武器を隠して出かけて行った。

柳川一派の8人

殴り込みに行った柳川組組員は8名だった。

この柳川組の「黄金の8人」(『柳川組の戦闘』)について飯干晃一は、

  • 柳川次郎
  • 福田留吉
  • 高 信吉
  • 倉本広文
  • 斎藤 登
  • 松田 重
  • 武本ケ慧(「ケ」は「(ひとやね)」の下に縦棒「丨(たてぼう)」)
  • 福成信昭

という名前を挙げている。

8人のうち、分かる者の年齢だけ挙げるなら、柳川次郎が35歳、倉本広文にいたってはまだ10代だったという。

柳川一派と鬼頭組・100対8の喧嘩をする

鬼頭組若頭の宮本が斬られる

こうして8人は出かけて行ったが、鬼頭組事務所の20メートルほど手前まで来ると、柳川次郎は他の者を押しとどめて、秋山大豪と梅野国雄の安否を尋ねるために1人進んでいった。

しかし気が気でない他の者たちは、進んでいく柳川の背中を見ながらじりじり前に出てしまい、実際には10メートルほど近づいていたらしい。

ともかく柳川は秋山・梅野の安否を尋ねるために、事務所の中に1人で乗り込むつもりだったが、その前に事務所から出てきた梅野と出くわした。

梅野は明らかに武装しているらしき柳川の姿を見ると、「兄弟、まてっ、まてっ!」と言って押しとどめた。柳川も「梅野か」と答え立ち止まる。

ところが、梅野は一人で出てきたのではなく、一緒に日本刀を持って鬼頭組若頭の宮本という者も見送りに出たのである。宮本は日本刀を持った柳川の姿を見て一気に逆上した

宮本が日本刀の鞘を捨てて柳川に躍りかかると、柳川は咄嗟に下駄を飛ばし、オーバーをはねのけ、身をかわした。

宮本の白刃は空を切ったが、それを見た柳川組の7人は一斉に宮本に斬りかかり、福田留吉が宮本の肩を、高信吉が腹を、倉本広文が腕を斬った

またたく間に宮本は血まみれになって倒れた。

100対8の死闘が始まる

先手を打たれ、若頭の宮本があっという間に斬られたことで、さしもの大人数の鬼頭組組員たちも動揺の色が走った。

是非もない柳川次郎は開戦を決意し、配下の者らに刀を振り回しながら前進するように命じた。「刀を振り回せ」というのは、鬼頭組事務所の前は裏通りで道が狭く、敵がいっぺんに出てこれないようにそのように命じたのだった。

戦いが始まっても、こうすれば出てくる敵とだけ戦うことができる。

互いに斬り合いが始まり、鬼頭組幹部の玉岡竹夫が出てきて柳川次郎に躍りかかった。柳川はまたも身をひるがえして避け、それと同時に右から斜めに切りつけた。

玉岡の手から日本刀がすっぽり抜けて5メートルも飛んだ。倒れた玉岡を高信吉が跳ね上げるように斜め下から斬る。

玉岡竹夫は絶叫しながわ血を噴き上げ、倒れるとそのまま動かなくなった

混戦が続く中、事務所の二階から見ていた鬼頭清は若い者にはっぱをかけて戦うよう促すと、それに力を得て鬼頭組組員も衆を頼んで続々と出てくる。

時々は鬼頭組から銃声が聞こえたが、敵味方が入り乱れ出す中では拳銃は使いづらく、やはり柳川組側と同じく鬼頭組にとっても主要な武器は日本刀だった。

戦いの終盤

鬼頭組事務所の前が狭い裏通りだったことは柳川組に有利に働いた。多勢だということに変わりはないものの、鬼頭組が一度に戦える人数も限られていたからだ。

柳川を先頭に組員7人も奮闘した。福田留吉の刀は刃がこぼれ、ついには曲がってしまったという。派手な戦いを聞きつけ、警察も動き出した。

パトカーの音が聞こえると、徐々に鬼頭組組員も散り散りになっていき、逃げる者と戦う者との混乱で徐々に戦場も拡散していった。

大阪・西成に来たばかりの福田留吉は迷ってしまい、そこでばったり5人の鬼頭組組員と出くわした。斬り合いが始まり、福田は右腕を刺され、左の頬と背中をやられた

しかしさらにパトカーのサイレンが近づくと鬼頭組組員らは逃げていったが、一人だけ九州から身を寄せていた鬼頭組・客分の江口という男が逃げずに福田と差し向いになった。

福田は江口と斬り合ったが、ついに曲がった日本刀は福田の手からこぼれた。

江口が斬りこんでくると、咄嗟に福田は江口の刀を素手で掴み、左手の人差し指、中指、薬指が飛んでしまった

武器を失い、かなりの深傷も負った福田は覚悟を決め、江口をにらみつけた。

なぜか分からないが、江口は刀を振りかぶったまま動きを止め、福田とにらみ合うと、しばらくして身をひるがえしてその場から去っていった。

福田は柳川らを探していた梅野国雄に見つかり、へたりこんでいる福田を見つけた。

指を斬られたことを知らされると、あたりで落ちている指を探し、見つかった薬指は病院にすぐに行ったことで奇跡的にくっついたという。

柳川一派・鬼頭組双方の死傷者と顛末

鬼頭組は1名が死亡(幹部の玉岡竹夫)、重軽傷者15人を出した

一方で柳川一派の者たちも多くの手傷を負った。

福田留吉は左手の人差し指と中指を失った。しかし柳川一派側で一番ひどい負傷をしたのは福成信昭で、左腕を斬り落とされて失うこととなった

それでも戦闘に加わった柳川の配下の者たちの奮闘は目を見張るものがあった。

しかし、やはり一番すごいのは柳川次郎本人かもしれない。柳川次郎は先頭に立って戦ったにも関わらず、体には傷一ツついていなかったのである。

その後、鬼頭組は四散、瓦解したということだが、柳川一派との抗争に負けてすぐに瓦解したというわけではなく、徐々に弱体化していったということらしい。

抗争後、柳川らは九州に逃れたがそこで捕まってしまう。

柳川と鬼頭組組員らは同じ大阪拘置所に入れられたが、資金潤沢な鬼頭組組員には豪華な差し入れが次々に届き、一方で柳川らは柳川の妻が苦心して金をつくって差し入れの弁当を入れていたという話が残されている。

柳川次郎は、谷川康太郎、石田章六、稲妻賢一らが無理矢理に金を集め保釈金を作ることができ、9か月後の昭和33年11月に保釈された。

この時、稲妻賢一は保釈金を作るために片っ端からパチンコ屋を恐喝して回ったという、健気なんだか恐ろしいんだか分からないようなエピソードもある。

保釈された時、柳川が拘置所の門を出て驚いたのは、そこに知らぬ顔の者を大勢含む80人もの出迎えがいたことだった。知らぬ顔の者は、梅田、西成、十三、三国、都島、寺田町などの独立愚連隊の若者たちである。

この鬼頭組との抗争を切っ掛けに、柳川次郎のもとにはその評判を聞いた若者が大勢押しかけ、柳川次郎は彼らを迎え入れて「柳川組」を新たに興すことになるのだった

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