クセノポンの『キュロスの教育』

クセノポンの『キュロスの教育』は、小説的形式で、幼年時代から死までのキュロスの人生を語ったものである。『キュロスの教育』はクセノポンの教育論・政治論だが、とりわけクセノポン自身の夢を託した君主論という性格が強い。

クセノポンの『キュロスの教育』

「教育」という言葉がタイトルに付くが、幼少期のキュロスについて語るのは、ごく序盤に過ぎない。

またペルシアの教育制度とされるものはスパルタのそれと酷似しており、スパルタ贔屓だったクセノポンが、ペルシアの教育制度をスパルタに引き寄せて描いているのは間違いないと思われる。

キュロスの細かな事績についても、ヘロドトスの『歴史』が伝えるものと多くの相違があり、あくまでもクセノポン自身の創造である。

クセノポンの理想的君主像

クセノポンにはアテナイの民主制とは異なり、君主制に対する憧れのようなものが強かったらしい。それはスパルタのアゲシラオス王に対する傾倒にも窺うことができる。

マキャヴェリの『君主論』を知っている我々現代人からすると、クセノポンの君主論はかなり素朴で単純に思える。軍事的な才能を除けば、『キュロスの教育』におけるキュロスの人物像から窺える、クセノポンの考える「王者らしさ」とは、何よりも「気前の良さ」であり、物惜しみしないことである。

配下の者に多くの贈り物を与えるのは、王が好かれるためにもっとも重要な手段であり、それはキュロスの最期の言葉が「お前たちは味方に親切にすれば、敵を懲罰することができるということを覚えておけ」であることからも分かる。

会話や冗談

作中でかわされる会話に関しては、ペルシア人はゾロアスター教徒だったはずなのに、「誓って」とか「間違いなく」と同じ意味で、「ゼウスにかけて」という言葉が使われるのが散見される。これもギリシア人に引き寄せて登場人物を形づくったためだろう。

作中人物はしばしば拘りのない冗談をかわす。こうした冗談は、もしかすると、軍隊経験の豊富なクセノポンが、戦陣でかわした冗談をそのまま映したものなのかもしれない。

このような冗談は如何にも軍人らしい。

彼(キュロス)は食事をともにする小隊長の一人が非常に毛深くて醜い男に隣の席をとらせているのに気づき、その小隊長の名を呼んで次のように言った、「サンバウラスよ、お前も横にいる若者が美しいから、ギリシア流に連れ回しているのか」。
「そうですとも、ゼウスにかけまして」とサンバウラスは言った、「自分は確かに一緒におりまして、こいつを見て楽しんでいます」。
これを聞いて、天幕に一緒にいる者たちは男のほうを見たが、彼らはすべてその男の顔が度を超して醜いのを見て笑った。

しかしサンバウラスという小隊長は、その男が献身的で汗を流すことを厭わないことを褒める。別の者がその男に、小隊長は接吻しないだろう、と尋ねると、男も拘りない言葉で座を笑わせようとする。

「いや、ゼウスにかけまして、小隊長殿はそれをなさいません。苦労好きの方ではありませんから。小隊長殿がわたし奴(め)に接吻しようとされますと、それはあらゆる肉体の鍛錬に匹敵する苦労でありましょうから」。

古代人の素朴さ

古代人は現代人のように、戦闘での殺害と、普段我々が順守する倫理との矛盾や相克に悩んでおらず、性(さが)が素朴であったのが窺われる。

ある中隊長は部隊が二つに分け、双方に鎧と盾で武装させた上で、一方は土塊(どかい・文字通り土のかたまり)を武器にして遠方から投げさせ、一方は棍棒を持たせ、互いに争わせて訓練をさせた。

当然、前半戦では棍棒を持った方が一方的に土塊で打たれるが、後半では土塊を持った側が棍棒で一方的に打たれることになる。それが終わると、今度は棍棒と土塊の武器を交換してもう一度行う。

このような訓練をした兵士の感想が、棍棒を持つと接近戦では一方的に打つことができるのが、「このうえもなくすばらしい楽しみであった」と、あまりに単純素朴なので面白い。

楽しみと訓練とを両立させるという教訓的意図のある挿話なので、多少の誇張はあるだろうが、おそらく現代人なら、接近戦で無力になった相手を一方的に打つのを、「このうえもなくすばらしい楽しみ」とは、けして表現しないだろう。

冷静な観察

次のような部分は、物語としての『キュロスの教育』では珍しく冷静だ。

小アジア(現在のトルコ)当たりにあった風習のことを指しているのだろうが、そこに住む民族が戦争に行く時に女性を一緒に連れて行くことについて、クセノポンが簡単な推察を述べている。

今でも、アジアにいる者はすべてもっとも愛するものを側に置いておくほうがよく戦えると言って、戦場に向かう場合も、このうえもなく価値のあるものを携えて戦場に出ている。それらを果敢に防衛しなければならないからだ、と言うことである。おそらくそうなのだろうが、彼らは多分性欲を満たすためにもそうしているのであろう。

「おそらくそうなのだろうが」と一応認めた後で、冷静に「性欲のため」と結論している辺りが面白い。