ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における不幸論

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の「六・三七三」と「六・三七四」を読んだ時、これは「不幸論」以外に解釈し得ないと思った。

私は深い感動を覚え、長い間それに取り憑かれていた。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の不幸論

『論理哲学論考』の「六・三七三」と「六・三七四」

『論理哲学論考』の記述様式からすれば、「六・三七三」と「六・三七四」は「六・三七」を補足説明したものであるから、「六・三七」も合わせて引用する。

六・三七 あるできごとが起こったために必然的に他のできごとが引き起こされるといった強制は存在しない。存在するのはただ、論理的必然性のみである。

(略)

六・三七三 世界は私の意志から独立である。

六・三七四 たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる僥倖にすぎない。なぜなら、意志と世界の間にはそれを保証するいかなる論理的連関も存在せず、さらにまた、かりに意志と世界の間になんらかの物理的連関が立てられたとしても、その物理的連関それ自身を意志することはもはやできないからである。

幸福に対する不幸の優位性

私は特に「六・三七三」の「世界は私の意志から独立である」には深い感動を覚えた。「何と簡明にこの言葉は、不幸について、というか不幸の生起するメカニズムについて説明していることか」そう私は思った。

一方で「六・三七四」は、「全ての幸福は僥倖である」と要約できるように思えた。

総じて私は、これらの記述が、「幸福は偶然であり、不幸は必然である」と語っているように思えたのだ。

これらの記述は、一見「幸福に対する不幸の優位性」を、完璧な仕方で証明してみせたかのように見える。しかし今は、私はこれらの記述を、というか、これらの記述が作っている修辞的効果を信用しない。

「六・三七三」

「世界は私の意志から独立である」とは、いわば「世界は(幸福であろうとする)私の意志に無関心である」という意味に過ぎない。しかし「無関心である」というのは、「阻害する」という意味ではなく、単に「協力しない」ということに過ぎない。

要はこの「世界は私の意志から独立である」とは、「世界は私が幸福であろうとすることを手伝いはしない」ということであり、したがってそうした意味で「幸福には必然性がない」ということだけだ。

しかし「幸福には必然性がない」ならば「不幸は必然的」なのだろうか。

もちろんそうではない。「幸福には必然性がない」ということは、それ以上のことを何も語ってはいない。何故なら、同じように「不幸にも必然性はない」からである。

したがって、「六・三七三」の「世界は私の意志から独立である」という記述は、その修辞的効果とは裏腹に、論理上はいささかも「幸福に対する不幸の優位性」を証明しはしないのである。

余談になるが、もう一つ興味深いのは、この「世界」と「私の意志」という言葉を入れ替えたなら、文の構造は似ているのに、その修辞的印象は全く逆になるということだ。

「私の意志は世界とは独立である」

これならばむしろ「私の意志」は「世界」の巨大さにも関わらず全く独立に存在している、という「人間の意志の独立性」を賛美する(月並みでヒューマニティックな)言葉になる。

「六・三七四」

一方の「六・三七四」だが、例えば、何故ウィトゲンシュタインは「たとえ欲したことすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる僥倖にすぎない」と書く代わりに「たとえ欲しないことのすべてが起こったとしても、それはなお、いわばたんなる不運にすぎない」と書かなかったのだろうか。

あるいは、「六・三七四」をこのように言い換えてもいい。

「『表』が出てほしいと念じた上でコインを投げて、連続して表が出たとしてもそれは偶然だ」だが出てほしくない「裏」が連続して出るのも偶然なのだ。

世界と、幸福であろうとする人間の意志

確かに、世界と意志との間には、ウィトゲンシュタインが欲したような連続性はないのかもしれない。しかし、それがどうしたというのか。

私に腕があり、その腕が動くならば、私は欲した時に目の前のコップを手に取り、そこに入っている飲み物を飲むことができる。

「幸福」が「コップ」や「飲み物」ほど単純ではないにしろ、その会得にもっと複雑な操作が必要であるにしても、本質的には目の前のコップを取ることと何ら変わりはないと私は考えている。