ノーマン・マルコムの『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』

『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』(平凡社ライブラリー)は、ウィトゲンシュタインの弟子だったノーマン・マルコムによる評伝である。

同じく弟子だったフォン・ライトの小伝も読める。

ノーマン・マルコムの
『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出

ウィトゲンシュタインはおおむね、読む前に私が抱いていたのと同じような、イメージ通りの人間だった。神経質で繊細、短気、ネガティブで自己評価が低く、完璧主義。

イメージと違ったのは、想像よりも快活なところがある、ということくらいだった。

例えば、マルコムに手紙で、自分がサイン入りの本(自著ではない)を贈ったことについて、こんなジョークを言っている。

気に入らなかったら捨てて下さい。ただ、僕の寄贈と書いた頁だけは切りとること。僕が有名になったあかつき、僕のサインとして貴重なものになる。そして君の孫が売って現ナマをしこたま手にすることができるという段どりだ。

ウィトゲンシュタインの魅力

ノーマン・マルコムが、ウィトゲンシュタインをケンブリッジ大学で初めて見たのは、倫理学研究の集まりで、討論が始まった時だった。

ウィトゲンシュタインがどもりながら喋るのを、「誰ですか、あれは」と人に訊くと、それがウィトゲンシュタインだったという。

気をつけてみると、部屋中の誰もが尊敬のまなざしで彼に注目していた。

ウィトゲンシュタインの講義

ウィトゲンシュタインの講義は、いわゆる「レジュメ」のようなもの、つまりノートや下準備が全くなしで行われたという。

ウィトゲンシュタインの表現によれば、ノートを読むと「言葉は生命を失った死骸のように」感じられるからだ。

講義の準備としてやることとしては、講義のはじまる前に数分間だけ、前回に何を討議したかを思い出すだけだ、と彼は私に語ったことがある。

ウィトゲンシュタインの信仰

弟子だったマルコムとフォン・ライトの二人が、揃ってウィトゲンシュタインは信仰を持っていなかった、と書いているのは意外だった。本当だろうか。

それなら、彼が哲学者の中でキルケゴールを特に尊敬していたのは何なのだろうか。他にもトルストイ、ドストエフスキー、アウグスティヌス、彼が尊敬していたり、好意を持っていた作家は、ほぼ例外なく宗教的な人間である。

信仰をごく表層の部分で捉えるなら(教会に通う・通わないとか)、ウィトゲンシュタインは信仰を持っていないように見えたかもしれないが、私にはそうは思えない。

確かに「完全な信仰」は持っていなかったかもしれないが、彼は仕事の中に信仰を持ち込まなかっただけで、信仰を持っていなかったわけではないだろう。

天才か努力か

世上、天才と評される人が、実は天賦の才ではなく異常な努力に支えられているのだ、という問題の切り口は、かなり使い古されたものではあるが、やはりマルコムの『ウィトゲンシュタイン』を読むと考えてしまう。特に、天才ではなく努力だ、というより、むしろ「天才とは努力せずにはいられない性質のことなのだ」などと思う。

マルコムによると、ウィトゲンシュタインは、哲学的な問題に取り組んでいる時、相手が言葉に行き詰まり、何と言おうか迷うと、その適切な言葉の置き換えを言い当てる「異常な才能」を持っていた。

それは、彼が何百回となく自分が思考して通った道を、相手もまた通るために、相手の頭の中が分かるのだとマルコムは考えている。

彼は、あるとき私に、教室で誰かが何か考えついたことで、彼自身がそれ以前に一度も考えたことがないものは、ほとんどありえない、と言ったことがあるが、これは大ぼらではなかった。

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