2019年7月12日、旭琉會の会長、富永清(とみなが きよし)氏が亡くなりました。

これを受け、ヤクザライターの第一人者である鈴木智彦氏が沖縄で行われた葬儀に出席、アウトロー誌の実話ナックルズ(2019年10月号)で、その取材をもとに書いた文章とともに生前の富永氏の写真を載せています。
これらの写真は、富永会長と四代目山口組組長・竹中正久(たけなか まさひさ)とのツーショット、富永会長と稲川会二代目会長の石井隆匡(いしい たかまさ)・「最後の博徒」波谷守之(はだに もりゆき)とのスリーショットなど、大物ヤクザと撮影した非常に貴重なものです。
富永清と竹中正久とのツーショット画像(写真)
こちらが富永清と竹中正久とのツーショット画像(写真)。
(左・富永清、右・竹中正久)
富永清と石井隆匡・波谷守之との スリーショット画像(写真)
こちらが富永清と石井隆匡・波谷守之とのスリーショット画像(写真)になります。
(一番上から時計回りに富永清・波谷守之・石井隆匡)
鈴木智彦の見た沖縄ヤクザと旭琉會会長・富永清
鈴木氏によれば沖縄のヤクザは親分子分の関係が本土のヤクザよりもずっと近く、葬儀では富永会長の骨は家族や旭琉會の幹部はもちろん、末端の若い組員でも拾ったそうで、こうした光景は本土ではけして見られないものだといいます。
またヤクザの序列は通常は組織に入った順に決まりますが、沖縄では通常の長幼の序がそのまま適用されるといいます。
沖縄では本土に見られるようなヤクザ組織の仕組みより、同じ場所で育った関係性の方が強く、こうした部分に見られる沖縄独特の地縁関係の強さが、一端こじれた関係の修復の難しさに繋がっており、より沖縄ヤクザの抗争を過激化させる原因とも考えられるようです。
また鈴木智彦氏は富永会長について、「常々かっこいい人だと思っていた」「長年ヤクザ取材をしても、こんな人にはそうそう出会えない」とし、その理由を富永会長が「どんな場面でもやすやすと危険に飛び込む人だったから」としています。
富永会長は当時のヤクザとしては珍しく大学に進学、にも関わらず抗争の最前線に自ら志願しました。
先の写真が示すように交友関係も広く、例えば先の写真に登場した竹中正久と意気投合したのは、本土の大組織が沖縄に進出した時に掛け合ったのが富永清氏で、富永氏がハッタリを用いず、粘り強く交渉できたからだろうと書いています。
沖縄ヤクザは長年の抗争の末、富永清を長として2011月11月に新生・旭琉會の結成式が行われ、悲願だった一本化が達成されました。
当時、警察の警戒態勢の中、深夜に行われた結成式には鈴木氏も取材に訪れました。
鈴木氏が富永会長に「おめでとうございます!」と声をかけると、富永会長は足を止め、手を振ってくれたそうです。
鈴木氏の文章は次のように結ばれています。
通常、指定団体のトップは我々のような取材陣を冷たい目で見ることが多く、会話の一切を拒否する人さえいる。しかし沖縄ではそんな辛さ・惨めさを味わう必要はなかった。こんなトップは、そして組織は、他のどこにも存在しなかった。
心から感謝しています。本当にありがとうございました。
鈴木智彦氏のツイッターアカウント⇒ 鈴木智彦/SUZUKI TOMOHIKO
鈴木智彦氏のブログ ⇒ 自著のための補稿(鈴木智彦)