田岡一雄|2冊の本で同じエピソードが真逆の印象を与える

アウトロー
この記事は約4分で読めます。

山口組の三代目だった田岡一雄について以前、とある2冊の本を読んだ時に発見した記述の大きな違いに愕然とした経験があります。

今回はこれについて記事にしてみました。

スポンサーリンク

田岡一雄に対する『この国で女であるということ』の悪質な印象操作

島崎今日子『この国で女であるということ』における田岡一雄の描写

先に取り上げるのは島崎今日子の『この国で女であるということ』です。

島崎今日子はインタビューの名手として知られるフリーライターだそうで、彼女とこの著書の内容については Amazon のページで次のように説明されています。

インタビューの技は業界一と定評のある著者が『アエラ』の“現代の肖像”で掘り下げて聞いた傑作選20人。両親・友人・恩師・夫・仕事仲間などにも綿密な周辺取材を行うため、記事を読んでから一週間は連絡がなくなり、その後、お礼の電話がかかってくるという、伝説のインタビュー。中島みゆき・重信メイ(重信房子の娘)・たかの友梨・山本文緒―単行本未収録の4人を加えた、まっすぐに本質に届く、鮮やかな女の肖像。

引用:Amazon『この国で女であるということ』商品の説明

本を読んだ印象による限りザックリ「フェミニスト寄りのライター」ぐらいの認識でいいんじゃないかと思います。

それはいいのですが、問題は彼女の書き方です。

該当箇所は著者の島崎今日子が、田岡由伎(田岡一雄の娘)を取材して書いている章で、短大卒業後に悩んでいる田岡由伎に父である田岡一雄が一声かけたことについて書いている箇所です。

これじゃ普通の就職は無理だと思う一方で、父のつてを頼るのもイヤだった。それより何より、自分が何をしたいのか田岡にはわからなかったのだ。
卒業後悶々とする彼女を見て、父は「お前は可哀想なヤツやなあ。そいでもしゃあないな、自分で悩まな」と一言かけたきりだった。

引用:島崎今日子『この国で女であるということ』

この記述だと、如何にも田岡一雄が娘を無情にも突き放して素っ気なく冷たい対応をしただけのような印象を受けます。

田岡由伎『お父さんの石けん箱』における同じエピソードの記述

ところが、田岡由伎が父の田岡一雄との関りを書いて話題になった著書、『お父さんの石けん箱』では、まったく同じエピソードが真逆の印象を与える形で描かれています。

下記がその引用部ですが、原文は書籍であるため行間の1行はないのですが、読みやすいように適宜1行の余白を作って抜粋します。

短大を出たあと、自分は一体何をしたらええんやろ、生きる目的って何やろ、なんていろいろとずいぶん悩んだ時期があった。ひとりで部屋の電気もつけず、音楽もかけず、ジトッとしていることが多かったわけ。たまたま夜中にトイレへ行ったお父さんが、ついでに私の部屋をのぞいて、そんな私を見た。

「おまえ、かわいそうなヤツやなぁ。どこへ行ってええんか、なに見たらええんか、わからへんねんなぁ。そいでも、しゃあないな、それは自分で悩まな」

そう言って、スッと出て行った。あ、お父さん、ほんとに私を愛してくれてる。そう思った。私の悩みをわかってくれてる。でも、それは自分で悩まなしょうがないんやと。突き放して、親でも入り込めない領域だと。それが人間なんだと。私はその時、涙が出て止まらなかった。

引用:田岡由伎『お父さんの石けん箱』(第4章 お父さんが土下座した)

ご覧の通り、娘の田岡由伎が「父が自分を突き放すことで、かえって自分を深く愛し尊重してくれていることに気づく」という、まるで違う話になっています。

つまり田岡一雄の「人間力」というか「親力おやりょく」のようなものが感じられる逸話になってます。

両著作ともAmazonの評価はきわめて高い

今気づいたんですが、面白いことにこの真逆の記述がある両著作、どちらもAmazonの評価はきわめて高く、双方の星が4.5になってます。

 

最後に

なぜこのような真逆の印象を与える書き方になったのでしょうか。

可能性として3つほど考えられるでしょう。

  1. 単純に「許されている尺」の問題で大幅に省略した。
  2. 島崎今日子の取材時にはたまたま田岡由伎が著書と違う風に語った。
  3. フェミニスト寄りの島崎今日子にとって「男性である田岡一雄の振る舞いで娘の田岡由伎が深く愛されていることに気づく」ということが不都合だったので改変した。

真相は分かりませんが、読んでいて驚いたので記事にしてみました。

(記事おわり)

タイトルとURLをコピーしました