高村努は佃政(つくまさ)一家の幹部。佃政一家初代の金子政吉とは?

暴力団員であることを隠して自身の空手道場の運営資金として銀行から1000万円の融資を受けたことで、稲川会系のヤクザ組員・高村努(44)が逮捕された。

稲川会系組長の高村努容疑者が、7年前、横浜の銀行から空手道場の運営費の名目で、暴力団員であることを隠して1000万を借りたことで逮捕された。...

この高村努は、新たに佃政(つくまさ)一家の幹部だったことが判明。

佃政一家とは? また佃政一家の初代・金子政吉とはどのような人物だったかを調べた。

逮捕された稲川会系組長の高村努

暴力団組員であることを隠して、銀行に融資を申し込み、1000万円をだまし取ったとして、暴力団組長の男が逮捕された。

詐欺の疑いで逮捕されたのは、稲川会系暴力団組長の高村努容疑者。警視庁によると、高村容疑者は2012年6月、銀行に暴力団組員であることを隠して融資を申し込み、貸付金1000万円をだまし取った疑いが持たれている。

高村容疑者は空手道場の運転資金として、1000万円を借りたが、このうち約150万円しか返済されていないという。調べに対し、高村容疑者は容疑を認めていて、警視庁はだまし取ったカネが暴力団の資金源になった可能性もあるとみて調べている。

引用:https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190515-00000254-nnn-soci

そして新たな情報として、高村努は佃政一家の幹部であるとのことである。

佃政一家(つくまさいっか)とは?

全国暴力団wikiではこのように表記されている。

七代目佃政一家(つくまさいっか)は東京都中央区築地2-15-15セントラル東銀座419号に本部を置く暴力団で、稲川会の二次団体。

佃政一家系譜
初 代 – 金子政吉
二代目 – 三浦繁次郎
三代目 – 林松太郎
四代目 – 鈴木巳代松
五代目 – 井上与一
六代目 – 富山正一
七代目 – 馬場知己

組織図
総 長 – 馬場知己(稲川会執行部)
総長代行 – 石原智晃(稲川会代表理事 石原組組長)
若 頭 – 石山眞道(稲川会理事 石山組組長)
本部長 – 髙村有柾(稲川会代表理事 二代目馬場組組長) ???
総長補佐 – 西野正一(西野組組長)
組織委員長 – 小池 茂(小池組組長)
渉外委員長 – 二神英司(二神組組長)
懲罰委員長 – 大源和己(大源組組長)
風紀委員長 – 太田真吾(稲川会理事 太田組組長)
諮問委員長 – 松岡明雄(稲川会理事 松岡組組長)
行動隊長 – 山下義則
副本部長 – 中村初生(中村組組長)
執行部 – 綿貫邦夫(稲川会理事)
執行部 – 井上勝美(稲川会理事)
執行部 – 髙村貴広
執行部 – 内田智道
行動副隊長 – 天野統広
行動副隊長 – 水谷徳道
執行委員 – 阪本真司
執行委員 – 河村竜二
執行委員 – 福住 勝(新富総業組長)

引用:全国暴力団wiki

稲川会の直系団体ということもあり、かなり規模が大きい組織であることが窺える。

また当代の馬場知己は地元の人間ではないという。

ところで、高村努は幹部だというがこの中に名前はない。しかし真偽は不明だが、ネットの一部では、今回捕まった高村は「佃政一家の本部長」とする情報がある。

その見方を採用するならば、この組織図での本部長の「髙村有柾」と今回逮捕された高村努は同一人物である可能性がある。繰り返すが真偽は不明。

「苗字」が変わるならば理解できるが、下の名前が変わるということがあり得るのだろうか。

たしかに、もし高村努が在日コリアンであったりするならば、彼らは通名を用いることが多いので下の名前を変えることもできるかもしれないが、しかし報道では「高村努」とだけしか報じていないので、私には今のところ確証が持てない。

それでも、他にめぼしい人物は見当たらず、またこの本部長・髙村有柾(たかむら・ありまさ)について調べてみると、昭和49年生まれという情報が逮捕された高村努の年齢44歳とほぼ一致するために、本当に正しい可能性もある。

そしてこの本部長を逮捕された高村と同一人物と見なすネットの情報によると、今回捕まった高村は、数年ほどの短い期間で解散したチーマー「ブットバース」のメンバーで、ブットバース解散後は用賀喧嘩会を設立、次に稲川会系の右翼団体「大行社」に所属した後に稲川会森田一家へ、その森田一家総長の馬場が佃政一家の総長になったために佃政一家の本部長になった、とされている。

佃政一家の初代・金子政吉とは?

高村の話はここで終わり。

ここからは佃政一家の初代・金子政吉の情報をまとめたので書いておく。

金子政吉(1857-1934)は明治-昭和時代前期の侠客で東京・佃島(つくだじま)の親分

もとは漁師の出であり、町内や魚市場をめぐる数々の揉め事・トラブルを解決した。

政吉の親分は高橋文吉で、また政吉の兄弟分には、落合一家初代落合園次郎、金町一家初代坂本直吉、内川寛治郎といった者らがいた。

「佃政一家」の名は東京・佃島の「佃」、政吉の「政」を取って名付けられている。

金子政吉は自分や組の名前から、「魚河岸(うおがし)の政」や「河岸の佃政」とあだ名された。この「魚河岸」や「河岸」の由来は、おそらく政吉が元来日本橋の親分で、関東大震災前には築地ではなく、日本橋から江戸橋にかけての河岸に魚市場があったからだという。

関東大震災での活躍

他にも金子政吉のエピソードとして、関東大震災の時は住民を指揮して佃島を火災から守った、また同じく関東大震災において、朝鮮人が井戸に毒を入れたといった流言飛語・デマが飛び交って朝鮮人を虐殺する暴徒が生まれた際も、朝鮮人数千人を佃島に庇護した、というものがある。

この時、暴徒に備えて子分たちを武装して守らせた佃政は、「お前は日本人の敵か」と言われても、まったく動じなかったという。

その後、築地本願寺が関東大震災で焼失したために、墓地を杉並にあった陸軍省火薬庫跡地へと引っ越すのに尽力した。

杉並区永福1丁目にあり、女流作家の樋口一葉、作曲家の古賀政男、小説家・渡辺淳一、長編歴史小説家・海音寺潮五郎といった数々の著名人が眠る築地本願寺の和田堀廟所は、政吉が政府と交渉して本願寺側へ払い下げてもらったのだという。

政吉の葬儀が築地本願寺で行われたのもその縁からだろう。昭和9年3月8日に78歳で死んだ時の葬儀では、築地本願寺から浜町まで人が並ぶほど弔問客が引きを切らなかったと伝えられる。

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