純丘曜彰(大阪芸大教授)経歴 京アニ「麻薬の売人以下」コラム全文

大阪芸大の教授が最近起きた京アニの火事についてコラムを書き、その内容が物議をかもして炎上しています。その内容はアニメ論を展開しつつ、今回の火災について自業自得のように解釈できる内容でした。

そのコラムの内容とは?

また大阪芸大の教授とはどのような人なのでしょうか。

大阪芸大教授・純丘曜彰の顔画像

当のコラムを書いたのは大阪芸大の哲学教授の純丘曜彰(すみおか てるあき)氏です。


出典:Twitter

このようなことが起きるとすぐ改変されるWikipediaは既に「麻薬の売人以下」というキーワードで改変され、また一方でそれを阻止しようとする真面目な執筆者が保護申請を出しているようです。(現在では元に戻っています)

京アニを「麻薬の売人以下」と表現した
「終わりなき日常の終わり」コラム全文

京アニを「麻薬の売人以下」と表現したのはた、純丘曜彰氏が書いた「終わりなき日常の終わり」というコラムです。

このコラムは『INSIGHT NOW!プロフェッショナル』というウェブメディアに掲載されましたが、炎上後に原形をわずかに留めた文章だけ残してほぼ削除されています。(現在は完全に削除)

原文は4ページにわたって掲載され、すべてのページ冒頭で最初の「夢の作り手と買い手。~作り手の領域に踏み込んでくる。」(青字箇所で引用)という定型文が繰り返されています。

もともとのコラム全文は下。なかなかの長文ですので、分かりやすいように京アニ・京アニ作品への直接的言及の多い箇所や問題の「麻薬の売人以下」という箇所などを太字・赤字などにしておきます。

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

これらだけでなく、マンガを原作とした『聲の形』もまた、終わらない中高時代を終わらせようと、もがき苦しむ物語。二人は、終わりなき日常か、さもなくば死か、という極端な選択肢しか見いだせない。大人になる、昨日と明日を切り離して客観視する、という結末に辿り着くまで、紆余曲折、七転八倒で、のたうちまわる。新海の『秒速5センチメートル』の二人が、こともなげに過去と距離を作って大人になっていくのとは対照的だ。

それもこれも、京アニという製作会社自体が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだったからだろう。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物、子供以上大人未満のジュブナイルが当たったのか。なぜそれが日本アニメの主流となってしまったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより「学園祭」体験を求めている。だから熱烈なファンになったのだ。自分自身のアイデンティティ無き「顔無し」は、あたかも自分自身で作ったかのように作品群に心酔し、批判を狂ったように蹴散らす。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、いつか一線を越えて、作り手の領域、作り手の立場にまで、かってに自称で踏み込んでいく。最高に熱烈なファンの自分こそ「学園祭」の一番の主役であるはずだ、と。だが、それを拒否された、否定されたと思い込めば、彼らの凶暴なもう一面が歯を剥いて襲いかかって、破壊に転じる。

(クリント・イーストウッド『恐怖のメロディ』(70)、スティーブン・キング『ミザリー』(87)、ピーター・エイブラハムズ『ザ・ファン』(95)などに描かれてきたように、彼らは関係の距離感が壊れている。いや、自分の手もとにあり、耳元でささやき、リビングに現れる出版やラジオ、テレビというマスメディア、そして、タレントやスター本人が、その距離感の無さ、気さくな親しさ、という幻想をウリにしてきた。自分が接している、というだけで、彼らに、自分だけが接している自分は特別な存在だ、と錯覚させて商売してきた。)

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。彼らは入れてもらえるリアル中高生のようなLineも無く、数十万もの言葉をいまだにtwitterで虚空に叫ぶ。こういう連中に残された最後の希望は、自分もどこかすでにある永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした既製品の夢を見させられ過ぎた。それで、自分で自分自身の夢をゼロから積み上げて創れない。一発逆転も、また他人の出来あいの夢。だから、かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢(絶対に誰も入れない隔絶された世界)を売って弱者や敗者を時間的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。こんなビジネスモデルは、精神的サブプライムローンのようなもので、いつか破綻する。そして、実際、その崩壊が始まった。リアル中高生が食いつかず、市場が高齢化し縮小してきている。

まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

引用:「大阪芸大哲学教授、京アニを『麻薬の売人以下』呼ばわり」魚拓から

この純丘曜彰氏のコラムは、京アニの火事と関連づけて論じなければ、特段叩かれるようなことでもなかったでしょう。文意は理解できなくはないし、ある部分では鋭いところもあるかもしれません。

ですが、このようなタイミングで人為的な火災を自業自得と解釈できるような文章を書き、なおかつ「麻薬の売人以下」という露骨な侮蔑的表現を用いたことで大きな反発を招くのはやむを得ないことでしょう。

「麻薬の売人以下」という表現はかなり強いですから、もしかしたら純丘氏は以前から京アニが中心的に制作してきた学園モノの物語が嫌いだったのかもしれません。

また純丘氏は京アニの社員たちを、アニメの仕事をするようになってから「夢の中毒に染ま」ったなどとしていますが、明らかに順番が逆でしょう。

良くも悪くも、既にそのような夢に染まっているから、そうしたアニメを作る仕事を志したのでしょう。

こうした部分からは、コラムの京アニに対する誹謗的内容云々より、単純にそうしたアニメ好きな人たちの心象への無理解が伺えます。

如何にも「哲学」教授らしい、「非・人間通」な解釈とでも言えばいいでしょうか。

純丘曜彰の学歴・経歴

純丘曜彰氏は東京の成城で、版画家で浮世絵研究家の稲田年行(いなだ ねんこう、1925年1月4日 – 2014年2月3日)氏の息子として生まれています。

稲田年行氏は私もよく知りませんが、Wikipediaで数々の著名人が親族にいるらしいことから、一種の学問的・文化的分野での名家一族のような人でしょうか(稲田年行氏は建築家・稲田尚之の兄で、憲法学者・小林直樹の甥、息子に純丘曜彰氏の他、版画家・稲田醍伊祐がいます)。

また純丘曜彰氏はゆかり幼稚園、成城学園高校を卒業、その後ドイツのハイデルベルク大学への留学も経験、そして東京大学文学部に入学・卒業しました。(なぜか経歴などで小中学校は記載されていないのに幼稚園は記載されています)

テレビ朝日の報道局報道制作部のブレーンとして、あの田原総一朗が司会を務める『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、その後、玉川大学文学部講師(哲学)、東海大学総合経営学部准教授(経営学)、ドイツ・グーテンベルク(マインツ)大学メディア学部客員教授(映画学)を経て、現在は大阪芸術大学・芸術学部哲学教授をしています。

著書も、もともとテレビマンだったという経歴から『人気テレビ番組の文法』『きらめく映像ビジネス!』のようなテレビや映像について書いているものから、ギリシャ史を講義した『ヘッラスの栄光』(kindle版)、また『近世ヨーロッパの思想と社会』といったお堅いものまであり、『死体は血を流さない』『悪魔は涙を流さない』『アマテラスの黄金』といった小説まで出しているなど、かなり多彩な活動をしています。

ご自分のホームページも持っています。

⇒ 純丘曜彰教授博士

純丘曜彰出演の動画

下の動画では純丘氏が哲学について語っています。

純丘曜彰 大芸大テレビ20130118

最後に

それにしても、純丘曜彰氏は経歴などを見てもつかみどころのない人物です。

東大を出たり、ドイツの大学で教鞭を取ったりしていることから、かなりのインテリであることは確かなようです。

だから今回の騒動はそうしたインテリの一番悪い部分である、浮世離れしたところが出て筆がすべってしまったということではないでしょうか。

以上になります。

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