ベルクソンの『精神のエネルギー』ベルクソン哲学の入門編

『精神のエネルギー』は、アンリ・ベルクソン自身によって著されたベルクソン哲学への入門書と呼ばれている。

しかし、ベルクソン自身はそのような気持ちで出版したわけではないらしく、発表はしたものの色々な事情でフランス語では読めないものをまとめて出版したらどうかと、友人たちに勧められたからだという。

『精神のエネルギー』の分かりやすさは、収められている7篇の内、4つが講演録であることから来ていると思われる。

また『思考と動き(思想と動くもの)』は、『精神のエネルギー』の続編である。

ベルクソンの『精神のエネルギー』

ベルクソンの哲学の方法

ベルクソンは、あまりに慎重に思考のメカニズムを事前に点検して、真理の可能性を調べる体系的哲学を批判している。

私たちはどこから来たのか。私たちは何者なのか。私たちはどこへ行くのか。死活の問題とはこれであり、体系に頼らずに哲学するとき、私たちはただちにここに向かうはずです。ところが、あまりにも体系的な哲学は、この問いと私たちとの間に他の問題を差し挟んでしまいます。

あまりに慎重に思考のメカニズムを調べる哲学は「進む勇気を挫いて」しまう。

重要なのは、何はともあれ出立することだ。そうすれば、致命的障害も「幻影」に過ぎなかっただと分かるかもしれない。

ベルクソンは他の哲学者たちのようにただちに確実な真理を求めずに、蓋然性(かもしれない、その可能性がある)を高めることで最終的に確実性に帰着するような道行きを選ぶ。

ベルクソンの生命論

もっとも興味深い部分はベルクソンの生命論である。

驚くべきことにベルクソンは「生きているものはすべて意識を持ちうる」と述べる。

すなわち原理的には、意識は生命と同じだけのひろがりを持っています。

意識は選択の可能性を意味している。意識は自由の器官であり、それは全生命に権利上同じように与えられているが、ほとんどの生物はそれを実質的に放棄している。

一方には植物や昆虫への道があり、それらの生き物は無意識に沈殿してはいるが、しかし自動的に外界の刺激に反応して最適な行動を行い、局所的ではあるがそれなりの合理性を持っている。

「おおづかみに」言えば、それとは逆に動物は意識の道へと進んでいったが、それを最高度に発達させたのが人間であり、人間が進んだ意識への道は、最高度の自由と危険とを共に持つことになる。

第一章「意識と生命」の末尾で、ベルクソンは死後に意識が存続する可能性を示唆する。

(略)したがって人格性の保存、いやその強化でさえも、身体がなくなった後でも可能であり蓋然的ですらあること、こうしたことを考えるならば、意識がこの世で物質を通過していく間に鉄のように鍛えられてもっと効果的な行動のために、もっと強い生命のために備えているのではないかという推測が起こらないでしょうか。

ベルクソン哲学の動機

『精神のエネルギー』を読むと、ベルクソンの姿が徐々に「霊魂の不滅」を説いたプラトンに似てくることに驚く。

プラトンが現代人の我々には馴染みにくい形で論証することを、ベルクソンは科学の成果の力を借りて、より説得力のある形で近づいてゆこうとする。

『精神のエネルギー』の最終章「脳と思考」では、ベルクソンは、心身並行論(脳と心が完全に一致するという仮説)を観念論と実在論に適用し、二つの異なった立場の中で、いずれにしろ論理が破綻することを立証しようとしている。

ベルクソンはかなり力んで懸命に論理を展開しているが、(私も完全に理解し切れたわけではないので)そこでの論理が正当か否かは脇に置くとして、そこから私がありありと感じたのは、ベルクソンが擁護したかったのは結局、霊魂不滅の仮説ではないかということだ。

たぶん、それこそベルクソンの哲学の根本的動機だったのではないかと思う。

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