ソクラテスは世界的に仏陀・キリスト・孔子と並んで四聖(しせい)の一人とされている。古代ギリシャの哲学者で、もっとも著名な者といっていい。
ここでは主にディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』を参照しながら、意外な逸話や面白い話を探していく。

ソクラテスの逸話
ソクラテスはアテナイの人である。彼は石工をしていたソプロニスコスを父として、産婆のパイナレテを母としてその間に生まれた。『ギリシア哲学者列伝』によれば、彼自身が石工をしていたこともあると言っていた人もいるらしい。
また有名な悪妻クサンティッペの他、もう一人の妻を持った。


ソクラテスの師
アリストテレスがプラトンの弟子であり、プラトンがソクラテスの弟子であることは有名だが、ソクラテスに師がいたというイメージはない。
しかし『ギリシア哲学者列伝』によれば、ソクラテスは最初アナクサゴラスの弟子であり、その後にアルケラオスの弟子になったとされる。


従軍
ソクラテスは肉体の鍛錬を怠らなかったために頑健な肉体を持っており、何度も従軍し活躍している。
デリオンの戦いでは落馬した弟子のクセノポンを救い、敗走する軍の殿(しんがり)を務めた。この時、ソクラテスは退却する軍の最後尾で、背後を注意しながら悠然と退いたと伝えられる。
またポティダイアの戦いでは、(歩哨を務めた際に黙考し)一晩中身じろぎもしなかったこと、そして立てた手柄の褒章を弟子のアルキビアデスに譲ったことを『ギリシア哲学者列伝』は伝えている。
「逃げた奴隷」
悲劇詩人であるエウリピデスの劇を観ていた時、徳について「こんなものは去って行くがままにしておくのが一番だ」というセリフを聴いたソクラテスは「逃げた奴隷が見つからない場合には探すのが当然なのに、徳に対してはそうしないのはおかしい」と言って劇場から出て行ってしまったという。
この時、ソクラテスは譬えとして「逃げた奴隷」を挙げているが、ソクラテスの孫弟子にあたる犬儒派(キュニコス派)の「樽のディオゲネス」はこれと対照的な「逃げた奴隷を探さなかった」逸話を持っている。この対比は興味深い。


ソクラテスの刑死
ソクラテスの告訴人たち
ソクラテスを訴えたのは、アニュトス・リュコン・メレトスといった人たちだったが、この主要な訴人であるアニュトスは、新潮文庫『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』の注解によれば、スパルタの勢力を背景にアテナイに成立したクリチアスの独裁政権を打倒するに功績のあった人物で、今日的な基準からすれば、(口舌だけではない)「正義の人」であるのは興味深い。
ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』では、ソクラテスによってアニュトスが嘲弄されるプラトンの『メノン』を引き合いに出し、(ソクラテスからすれば、多くの人に己の愚かさを悟らせるという大義名分があったのだろうが)自分に誇りを持った多くの人に、こうしたソクラテスの振る舞いは我慢のならないものだったとしている。
ギリシャの民主政では、一時の嫉視や憤りで刑を下したことを人々が後悔する、ということがよくあった。ホメロスでさえ「気が狂っている」と難癖をつけられ、罰金を食らったことがあるらしい(『ギリシア哲学者列伝』による)。ソクラテスの場合も同様だった。
その後、ソクラテスを訴えた一人であるメレトスは後に死刑に処され、アニュトスがヘラクレイアという町に逃れると、その町の住人は彼に退去を通告した。
ソクラテスの最期
ソクラテスは逃亡を進める友人や弟子たちの言葉を聞き入れずに死を選んだ。
プラトンの『パイドーン』では、ソクラテスは毒杯を飲み、徐々に足元から感覚がなくなっていった、と描写される。
ソクラテスの最後の言葉は(新潮文庫の『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』によると)「クリトーン、アスクレーピオスに鶏をお供えしなければならない。忘れないで供えてくれ」だった。

