ニーチェ哲学の基本概念ルサンチマンを分かり易く解説する

ニーチェ哲学の基本概念に「ルサンチマン」というものがある。

これはニーチェ哲学のもっとも基本的な概念の一つであり、これを正しく理解しなければ、ニーチェを読んだところで理解できないか、もしくは誤読してしまう危険があるほどに重要な概念である。

そこでニーチェの言う「ルサンチマン」とは何か、分かり易く解説することにする。

ニーチェ哲学におけるルサンチマンとは何か

ルサンチマン理解に最適な『道徳の系譜』

ルサンチマンについて詳しく知るためには、ニーチェの『道徳の系譜』が最適である。

私の手元にあるのは岩波文庫版だが、光文社古典新訳文庫の『道徳の系譜学』や、ちくま学芸文庫の『善悪の彼岸 道徳の系譜』も評判は悪くない。

自分が持っていない癖に無責任だが、Amazonのレビューを読む限り、日本語としての分かり易さでいえば光文社版が良さそうな感じがする。

『道徳の系譜』は論文形式で、
第一論文「善と悪」・「よいとわるい」
第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」・その他
第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか
という構成になっている。

ルサンチマンについては第一論文の「善と悪」・「よいとわるい」に詳しい。

貴族道徳と奴隷道徳

第一論文のタイトルである「善と悪」・「よいとわるい」は、根本的に異なる二つの道徳(価値観)があることを説明するために分けられたものである。

奴隷道徳は「善と悪」、貴族道徳は「よいとわるい」に対応している。

また言い換えるならば奴隷道徳は「弱者の道徳(価値観)」であり、貴族道徳は「強者の道徳(価値観)」である。

「貴族道徳」と「奴隷道徳」を理解する前提として、過去の歴史上における、そもそも利他主義的な道徳それ自体が存在しない時代を想像しながら読むことが、理解するために必要である。

貴族道徳の発生

ニーチェは貴族道徳の発生についてこう述べる。

高貴な人々、強力な人々、高位な人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。

つまり、征服民族や社会の上位者が、自らを肯定して「よい」という評価を、それに対置される被征服者や社会的に下位の者を「わるい」という評価を与え、その「よい――わるい」という対立的評価軸こそが貴族道徳である。

我々は「道徳」という言葉ですぐ利他主義的な道徳・倫理を想起するから分かりにくいかもしれないが、これは簡単に言い換えるなら「優れている――劣っている」という評価軸こそが貴族道徳の本質だということである。

つまり貴族道徳における「わるい」は、現代日本語での「道徳的な悪」というニュアンスのものとは全く違う。

また貴族道徳が「自己肯定」に起源を持つことは特筆すべきだ。

奴隷道徳の発生

奴隷道徳は貴族道徳とは逆に、征服された者、社会的に下位にある者が上位者や征服者に対して「悪い」というレッテルを貼る。

次いでその「悪い人間」の対極にいる者として、自分たち虐げられる者を「善い人間だ」と肯定する。

ゆえにニーチェは奴隷道徳の発生についてこのように説明する。

彼はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対象物として、更にもう一つ「善人」を案出する――これが自分自身なのだ!……

つまりここでは「他者否定」が先行しており、貴族道徳において「自己肯定」が先行するのと対照的である。

また、奴隷道徳において「悪い」とされるものは、まさに貴族道徳において「よい」と自己肯定した者と同一である。

そして奴隷道徳を生み出すのは、虐げられてもそれを具体的な復讐によって解消できない弱者である。弱者は自分を虐げる強者を恨むが、恐怖心や劣等意識から復讐に踏み切ることができない。

つまり、弱者は強者に「復讐することができない」のだが、それを自己欺瞞から「復讐したくない」「復讐すべきでない」にすり替えてしまう。

ニーチェはこのような奴隷道徳こそが、キリスト教道徳の本質であると考えた。

またニーチェは『道徳の系譜』において、教師と生徒の対話のような形式で、奴隷道徳の形成過程をこのように解説させる(下記は生徒側の言)。

返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。

ルサンチマンによって奴隷道徳が生まれる

その奴隷道徳を創造する源となっている情念こそが「ルサンチマン」である。

自分が下位にあり、虐げられ、屈辱を感じている、だが具体的な復讐を実行する気力や勇気はない、だが虐げられた怨念は消えず、その内燃的な復讐心(=ルサンチマン)が自分を虐げた他者を否定するような価値観の形成に至る。

――道徳上の奴隷一揆が始まるのは、《反感ルサンチマン》そのものが創造的になり、価値を産み出すようになった時である。ここに《反感》というのは、本来の《反動(レアクション)》、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩(とはい・『やから』の意)の《反感》である。

上の「想像上の復讐」という言葉は「空想の中で復讐すること」のように思えて紛らわしい表現だが、要は直接的な復讐ではない、精神的な曲線を描く復讐心ということである。

例えば「殴られたから殴り返す」のような、精神的な「価値観」の形成に結びつかない直接的な復讐心はルサンチマンとは言えない。

何故なら、確かにそれが本来復讐心であるという意味で、ルサンチマンは(精神的な)「復讐心」ではあるが、通常の復讐に及べない無力さが前提とされているからだ。

ルサンチマンは、日本語のニュアンスでいえば、「復讐心」よりも「怨念」に近いものだと思える(だからといって『怨念』と訳すのはそれはそれで問題があるかもしれないが)。

またイメージで捉えるなら、ルサンチマンは「外に向かって爆発する火薬」のようなものではなく、「内側でくすぶりながら燃えている炎」のようなものである。

最後に

ルサンチマンはニーチェが利他主義的キリスト教道徳の本質と考えたものであり、それゆえ彼のキリスト教批判の根幹に関わっている。

ニーチェの『道徳の系譜』からルサンチマンを「自分や身近な人に発見する」という読み方をする人もいるし、それはそれで間違いとはいえないが、ニーチェのルサンチマン概念はそれに留まるようなものではない。

キリスト教道徳から宗教色を抜いたものが平等と民主主義に代表される「近代理念」であることを考えれば、ニーチェのルサンチマン概念は「キリスト教道徳」のみに留まらず、終局的には「我々の住む近代世界全体」を包括的に批判しているものだということは注意が必要である。

この記事で参照したテキスト。理解するのに差し障りはないが、あらためて読んでそれほど良いとは感じなかった。まだ買ってないのなら、上で紹介した光文社か、ちくま学芸文庫の方がいいかもしれない。

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