「プーチンのロシア」の試論的考察

ここでは、プーチンという人物に対して、私が抱いた、あるいは抱かされたイメージについて語ることにする。

「プーチンのロシア」の試論的考察

プーチンとド・ゴールの「自己と国家の同一視」

プーチンという人物に対して私が抱く印象で、もっとも本質的なものと思えるのは、極論すれば、彼が、自己と国家とを同一視している、ということである。ゆえに、滑稽な表現に聞こえかねないことを恐れず言えば、「ロシアのプーチン」というより、「プーチンはロシア」なのである。

政治家で似かよった印象を受ける人物に、フランスのド・ゴールがいる。彼もまた、自己と国家とを同一視している、という印象を私に与える。彼は、「偉大でないフランスはフランスたりえない」と言っているが、それは、「偉大でない私など私ではない、私はそのような私に耐えられない」ということである。

そして、プーチンとド・ゴールの類似性とは、「国家と自己との同一視」なのだが、一方で二人の相違性は、もちろん「個人」としての気質の相違でもあるが、それとともにフランスという国家の性格、あるいはフランス人の国民性と、ロシアという国家の性格、あるいはロシア人の国民性の相違に由来するものである。いわば樹木が育った「土壌の相違」であろうと思う。

ド・ゴールは我意強い人間ではあったが、一方で、彼が真に愛国者であったことも否定できない。つまり、いわば前者の「悪い」属性は、後者のいわゆる「良い」属性を、否定するものではない。同じように、プーチンが所有している(我々から、あるいは欧米人から見てそう思える)諸々の「悪しき」要素は、プーチンが真正な愛国者であることを否定しているわけではない。

そしてまた、私が彼らが「国家と自己を同一視している」と言う時、それは、おそらく普通にそれを聞いた場合に、聞く人に与えるであろう「誇大妄想的」イメージを、(仮にそれがあるにしても、少なくともそれだけを)意味しているわけではない。

国家それ自体が大きな悪を含んでいるが、とりわけプーチンが同化したロシアという国は、その国民性の性質上、多くの悪を含んでいる。ロシア的なものはその根を、近現代的倫理以前から存在する、原初的な情念に持っているためであり、それはほぼ「ロシアの大地」と呼ばれるものと同義である。

ロシアと支那の国体

今、プーチンの下でロシアが存在感を増しているのは、一つには彼らが、ロシアのツァー的伝統に回帰しつつあるためである。それはつまり、彼らが本来あるべき姿に戻っているということであり、いわば、ロシア人が「国体の正常化」を成し遂げた結果なのである。

同様に、中国が存在感を増しているのも、彼らが「共産主義」という美名をもはやほとんど信じておらず、「共産主義」という外皮の下で、着々と「中華思想」に回帰しているためである。

中国人は、今や必要なのは権力機構である「共産党」であり、「共産主義」ではないと知っている。権力の安定のためには「党」が必要であり、しかも、それでいて、数千年に渡って磨かれた中国人(支那人)の政治的な天稟は、「共産主義」という表向きの看板をあえて下ろさずとも、政治生活を継続できるような、我々日本人が持ち得ないような狡猾な器用さを持っている。これは、我々日本人が、敗戦以来「戦争をしないで済んだ」のは、本気で憲法九条を「信じ、真に受けていた」人間が多かったためでもあることと対照的である。

そして中華思想とは、単に中華を中心に、蛮夷を睥睨するものではない。彼ら漢民族は、異民族に幾度か征服されたが、そのたびにその支配者である異民族を、漢民族の色彩に、中華色に塗り替えてしまった。

しばしば、ギリシャとローマの関係について、ギリシャはローマによって、地理的・軍事的には制圧されたが、文化的には逆に征服してしまった、という風に言われることがある。それは当時の勢力上、小なるギリシャが、大なるローマを、文化的に併合・征服した、ということだが、中華思想とは、ギリシャのそのような性質を、より巨大な版図で幾たびも再現可能にしたものなのである。

つまり中華(漢民族)が巨大であれば、それはそのまま巨大な力によって周囲を睥睨するが、一方で、何かしらの切っ掛けによって斜陽を迎え、漢民族の勢力が小規模になり、周囲の民族に征服されようと、それは、再び宿主(征服者)の体を徐々に侵食し、結局「(漢)民族」は征服者の下位に成り下がろうと、「(中華的)文化」は上位に着座するという、奇怪な魔力を持っている。そして、だとすれば「漢民族」は征服されたが、「中華」は相変わらず征服されることもなく、民族が支配される以前と同様に、そこに在り続けることになる。

つまりそのような不死身のアメーバのようなものこそ、中華思想の本体であり、支那の国体なのである。そしてそれはほとんど無形であり、いわば「これ」という実体を持たないがために不死身なのである。

日本

対して我が国について考えるなら、その最重要といわれている部分は、「皇室」という形で具体化されているために、儚く、滅びやすい。制度選択の間違い、後継者の選定の間違い、そういった1,2度の失敗のために、容易に滅んでしまう可能性のあるものだ。

中国やロシアは、着実にあるべき国の形に回帰しつつある。一方で我々日本人は、敗戦以来、父祖の伝統を侮蔑し、そこから乖離した距離によって自己の成長を測るような愚を繰り返してきた。

我々もまた、伝統に回帰しなければならないのだが、その伝統は、今や遠い過去に遠ざかり、消え入りそうな光でしか捉えることができない。

故郷に帰還するためには、まずは故郷を発見しなければいけない。

その故郷の探索こそが、今の我々には肝要事なのだと私には思える。

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