「ポリアモリー」への理解はどの程度まで可能か

最近、複数の人に同時に恋愛感情や関係を結ぶ「ポリアモリー」が話題になっている。そのことについて考えたことを書いてみたい。

ポリアモリーへの理解

ポリアモリーへの理解はどの程度まで可能なのか。

ポリアモリーを実践する人は、複数人を同時に愛さずにはいられないために、そのような実践に踏み切ったと言う。

それならば、ポリアモリーはその人本来の固有性に乗っ取って、無理をしないで済むように、そのような実践に踏み切ったことになる。

しかし、もし我々が先入観なしに虚心坦懐に、異なった性質の持つ人々を一人ずつ点検していくならば、そこには「殺人を犯さずにはいられない人」や「強姦せずにはいられない人」がいることに気付くだろう。

そこに変えられない固有の性質があるからといって、それを許容する文化という枠を、無制限に拡張できるわけではない。

ポリアモリーとモノガミー

そして、あえて言うなら、そもそもポリアモリーでない人などいるのだろうか。

あらゆる自己にとって理想的な恋愛関係とは何か。

それは自分の気に入った人ならば誰とでも関係を結び、なおかつその複数人が自分以外の人とは関係を結ばない、ということではないか。

そこにあるポリアモリーとの違いは、相手のそれも許容するか、しないか、ということだけだ。そういう意味でいえば、ポリアモリーを理解するのは容易い。

ポリアモリーの人が言うモノガミーとは、そのような本能の素朴なエゴイズムを回避するために生まれた文化的な装置なのだろう。

それがなければ我々は、嫉妬心による葛藤や家族関係の混乱によって必然的に苦しむことになるからだ。

そして多くの人がポリアモリーに抵抗を覚えるのは、モノガミーという文化装置によって既に「一人に付きパートナーは一人」という発想に馴染んだ後だからだ。

文化という鋳型は、不規則でエゴイズムの誘惑に屈しやすい人々の元来の性質を、おおむね画一的で共通した性質に整えるということにその本来の機能がある。

今現に行われようとしていることは、そうした鋳型を一時的に破壊し、より広範な形態に適合できる別の型に作り直そうということだが、そう上手くいくだろうか。

現代のおける恋愛や結婚制度の混乱

既に我々の時代には、一人のパートナーを見つけ出そうという時、自分との相性という点でいったい事前に幾つのことを憂慮しなければいけないだろうか。

例えば、

そもそも「絶食系」と言われる人のように恋愛に関心がない人ではないか。

そうでなくとも極端に恋愛に消極的な人だという可能性はないか。

(異性愛者の視点では)同性愛者ではないか、もしくは(同性愛者視点では)同性愛者であって欲しい。

家事は分担してくれるのか、してほしい人なのか。

子供は欲しいのか、欲しくないのか。

その内、こうした諸々の憂慮に、「この人はポリアモリーではないか」もしくは「ポリアモリーを許容できる人であってほしい」というものが加わることになるのだろうか。

最後に

にも関わらず、私はポリアモリーを非難すべき、断乎として拒否すべき形態として斥けようとは思わないだろう。

何故なら、そもそも私は「正しい答えがある」などと信じていないからだ。

今のところ言えることは、この文化の変革は他の多くの変革がそうであるように、ある人々には天国を、ある人々には地獄を運ぶだろうということだけだ。

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