「毒親」という言葉について 現代における親と子の心理学

少し前から「毒親」という言葉をよく聞くようになった。子の人生に悪い影響を及ぼした親について述べた言葉だが、私はこれについて全否定するわけではないものの、その有害な面についても思うところがあるので述べておきたい(一応述べておくが、ここでは重度の虐待被害者については除外して考えてほしい)。

現代における親と子の心理学

「毒親」という言葉

すぐに分かるように、これには心理学の一般化の影響が見られる。私は、それ自体を一律に悪いものだとは思わない。

私自身、自分自身の人生について思い悩む過程で、親の影響について思うところがあり、特に加藤諦三(かとう・たいぞう)氏の著書を中心に20冊以上は読み漁ったのではないかと思う。そこで学ぶことも多かったし、自分自身苦しんだにも関わらず著書やメディアを通じて他人を助けている加藤氏のことは今でも尊敬している。

それでも、「毒親」という言葉で見られるような、「親が子に及ぼす悪影響」ということを過剰に流布する思想は、現代において多少ゆきすぎているのではないかと思う。正確にいうと、「毒親」という言葉それ自体ではなく、その背後にある思想について釘を刺しておく必要があるように思う。

過去への無限責任・未来への無限責任

というのも、その思想は、かつて「孝」という儒教的概念で「子が親に対して負っていた無限の責任」を逆転しただけではないか、と思えるからだ(これも『孝』を全否定しているわけではない)。私は、どちらも「責任の所在が一方的」という点で誤りであると思っている。

つまり「孝」という概念を徹底的に先鋭化して突き詰めた場合に、子が親に対して、つまり親が代表する過去に対して無限の責任を負っているが、「毒親」に見られるような言葉においては、親が子が代表する未来に対して無限の責任を負っている。

お笑い芸人の鳥居みゆきさんが、「子供を(産んだとしても)愛せるか分からない」と言っていたが、今このような逡巡を抱えて子供を生むことに悩んでいる主婦は、世にどれだけいるだろうか。

そうした逡巡が生まれるのも、こうした「毒親」のような概念が流布されたことに一因があるだろう。そして本当に「毒親」になるような親は、たぶんそれほどこうしたことには悩まないものなのではないか、と私には思える。少子化という問題を抱えるこの国で、こうした逡巡を生み出す言葉の流行は、けして良いものではない。

過去への無限責任

例えば、息子でも娘でもよいが、自分が日々の生活で苦しむことで親が子としての自分に及ぼした悪い影響に気付いたとする。ところが、そのような親も大抵はまたその親からの悪しき影響が見られるのだ。つまり、「責任の所在」は当の子の親のところでストップするわけではなく、「子の親、そのまた親、またその上の親……」という風に無限に後退してゆく。

とすれば、どうなるのだろう。結局のところ、自分の不幸を完全に防止するための方法は一つしかない、という結論に至るだろう。つまり「タイムマシンに乗って、人類の始祖であるアダムとイブを絞殺する」という方法があるだけだ(もっとも、彼らが子供を作る前なら、どちらか片方を殺せば済むのだが)。

親と子について個人的に琴線に触れた二つのこと

ここで個人的に、親と子について琴線に触れた二つのことを紹介しておきたい。これについてはかえって抵抗を感じる読者もいるだろうが、それでも率直に自分が感動したことを書いておきたいと思う。

渡部篤郎さんの父親エピソード

フジテレビの「ボクらの時代」という番組に俳優の渡部篤郎(わたべ・あつろう)さんが同じく俳優の玉山鉄二(たまやま・てつじ)さん・大森南朋(おおもり・なお)さんとともに出演した時に聞いたエピソードだ。私はこれを見た時は何の気なしに聞いていたが、ふと思い出した瞬間に深く感動したのだ。

渡部篤郎さんの父親は同居をせず、近所に暮らしていた。子育てにも関わらず、要は篤郎さんは父親に「何もしてもらっていない」ような子供だったらしい。父親に対して愛情も持っていなかった。

父親が亡くなった時、篤郎さんは何の悲しみも感じなかった。しかしその時、「(亡くなっても)子供を悲しませない父親って凄いな」と思ったのだという。

私は、これについて批評する言葉を探すことができない。それを「大度」と呼ぶべきなのだろうか。私は深く感動して、(普段映画やドラマをあまり見ないことから)それまであまり興味がなかったこの人に対して好意を持った。

北方謙三の『棒の哀しみ』

次は北方謙三氏のハードボイルド小説『棒の哀しみ』の一節だが、もしこれから読もうという方で知りたくない人は、ちょっとしたネタバレになるので続きは読まないでほしい。これは実父と子のエピソードではなく、いわゆる「反社会的組織」の義理の父子関係の話だ。私はこの本を一度ブックオフに売りに出したのだが、これもふと思い出した時に深く感動して、結局このシーンを読みたさにもう一度買い直したのだ。

主人公のヤクザ「田中」は、自分の組長である「親父」を深く憎んでいた。電話口での様子、会って喋る時にも、ふとした仕草でその憎悪が垣間見える。

ひとりになると、男はテーブルに手を出し、テーブルクロスを爪でつまみはじめた。
「ドブん中でくたばりやがれ、老いぼれ」

(上の『男』は主人公の『田中』のことを指している)

ところが「親父」が病院で危篤になり、それの見舞いに行くと、田中自身にも予想外なことに涙を流してしまう。

この手が、俺を殴った。俺から金を吸いあげた。そしてなにか、俺が気がつきもしないことを、してくれたのかもしれない。

自分の人生についてどう考えるか

だからといって私は「子は親の罪の全てを許すべきだ」と主張しているわけではない。

ただ確実に言えることは、仮に子の人生の全ての責任を親に対して負わせたところで、親が子の人生を代わりに生きてくれるわけではない、ということだ。もちろん、「憎悪」も一種の処世であり、それによって何かが解決するなら、(特に一時しのぎの策としては)けっして否定すべきではないとは思う。

それでも当たり前のことだが、自分の人生は自分しか生きられない。私はこれをいい意味で言うのではなく、自明の前提として確認しておきたい。そうして親を憎んだところで自分の人生の全てが解決するわけではない。

それどころか、自分の人生のままならないことについて、全ての責任を親に負わせ、親に対する憎しみの中で停滞してしまうくらいならば、自分の心理的な弱点や傷をあらためて背負い直し、その全てを生きようという強い気持ちがどこかで必要になるのだと思う。

加藤諦三氏の著作から

最後に加藤諦三氏の本を何冊も読む中で見つけ、感動した言葉を二つ紹介したい。(あらためて探すために私が持っている各著作を見てみると、ページの端を折ってあったり付箋が貼ってあったり、また文章の脇に赤線が引かれている箇所が膨大にあった)だが二つのうち、一つだけどうしても見つけることができなかった。

その一つは該当箇所が見つからなかったので、文も正確には違うかもしれない。私の記憶が正しければ、たしかアルコール中毒者の治療のための団体が「モットー」として掲げていた言葉として紹介されていたと思う。

探し求め、怖れることなく

最後にもう一つの、PHP文庫『自分のうけいれ方』(P101)で見つけた加藤諦三氏の言葉を紹介する。

不幸な星のもとに生まれた人に必要な「決断」は、「私は神の子だ」という自覚である。そして私は「神の子」として生きていくのだという決断である。

フォローする