オルテガの『大衆の反逆』の思想とその矛盾

大学のころスペインの哲学者オルテガの『大衆の反逆』を読んだ。

私は本を読むとき、気にいった文章や心を動かされた言葉などに線を引きながら読むのが常だが、この『大衆の反逆』を読んだときは、いつも通り一本線だけでは足りず、興奮のあまり二重線や時には三重線を引くことすらあった。

それほど(今でもそうだが)当時の私には『大衆の反逆』が面白く感じられた。

オルテガの『大衆の反逆』

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、その著書『大衆の反逆』の中で古代ギリシャの哲学者のディオゲネスとその犬儒派の思想に触れている。 ...

ここからオルテガの『大衆の反逆』における「大衆の反逆」の意味をざっくり解説してから、重要な箇所や興味深い箇所を引用していく。引用はちくま学芸文庫の神吉敬三の訳文に依拠する。

少数者と大衆人(平均人)

オルテガは人間の全体は、少数のエリートと多くの大衆とに分けられると考える。特にオルテガは少数者のことを「精神的貴族」に譬え、彼らは自らに課する使命や責任において気高さを保有するのである。

この少数者と大衆人の二分類は、身分や階級によるのではなく「心理的事実」による分類であり、大衆人とは凡庸な人間、つまり平均人を意味している。

元来「平均人=大衆人」は、少数者は自分たちより優れており、自分たちは彼らの指導に従わなければならないことを自覚していたが、現代では、凡庸な人間が凡庸であるという自覚を持ちつつ、少数者の指導に従わない権利を得たと錯覚している、とオルテガは考える。

それをオルテガは「大衆の反逆」と表現しているのである。

選ばれた少数者の高貴さ

オルテガは選ばれた少数者は、内的な規律を自発的に求めると考える。それゆえ彼らは平均人より高貴なのである。

一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然と考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生――高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。

歴史と生

この文章は、オルテガが歴史について、あるいは根本においては生について抱いていた考えを、実に見事に、美しい形式で表現している。

わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬に逡巡し、一ヵ所で足踏みし、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである。

ここら辺には特に痺れた。

なぜならば、個人的であれ集団的であれ、人間的であれ歴史的であれ、生というものは、この宇宙において危険をその本質とする唯一の実体だからである。生は有為転変である。生とは、文字通りドラマなのである。

待命中の生

オルテガは使命や大きい事業の必要性を強調する。

待命中の生は死以上の自己否定である。なぜならば生きるということは何か特定のことをなさねばならないということ――一つの任務(エンカルゴ)を果たすこと――であり、われわれがその生を何かに賭けることを避ける度合いに比例して、われわれは自己の生を空虚にしてゆくのである。

若者に関する名言

これはロシアのマルクス主義が単なるフィクションだと断定した後で出てくる言葉だが、名言だと思う。

若者というものは、生きるために理由を必要としない。彼らが必要とするのは口実だけである。

つまりロシアは支配権の獲得のためにマルクス主義を「口実」として借りただけで、本質的にはロシアにとってそれほど重要なものではないのだ、ということである。これはソ連崩壊後の、社会主義を捨ててもなおロシアが復活しえたことを鑑みれば、あながち外れてはいないといえる。

支配とは精神力の優位である

オルテガは、トルコ皇帝のような人物であっても、その親衛隊(禁衛兵)が皇帝に抱いている意見によって権力を維持しているのであり、したがって「無邪気な三文小説的な観方とは逆に」、支配とは武力の問題であるより、むしろ、安定した玉座に座ることのできるという意味で「お尻の問題」であると述べる(この言い回しもユーモラスで面白い)。

この結論までの運びは、説得力もないことはないがやや強引なところもある。しかし如何にもオルテガらしい、情熱のその熱量自体で強引に読者を説得してしまうような威力を持っている。私も初めて読んだ時は痺れてしまった。

以上のことからわれわれは、支配とは一つの意見の、したがって一つの精神力の優位を意味することであり、支配権力とはつまるところ精神力以外の何ものでもないということに気づくのである。

シュペングラーの『西洋の没落』への敵意

オルテガは生粋のヨーロッパ主義者であり、『大衆の反逆』を読むと、新興国のアメリカや社会主義の旗のもとで勃興しつつあったソ連(ロシア)の風下に立ってはならないという強い意志を感じる。

そのためにヨーロッパの衰退について著述し、一世を風靡した『西洋の没落』の著者シュペングラーに対しても、時に一定の敬意を示しつつ、それを圧倒的に上回る敵意を隠しきれていない。

近年ヨーロッパの没落が大いに議論されてきた。ヨーロッパあるいは西欧の没落に言及しただけで、すぐにシュペングラーを思い出すといった無邪気な過ちはもう犯さないでいただきたい。彼の著作が公にされる以前から、すでに多くの人々がこの点を議論していたのであり、彼の著作が成功を収めたのも、周知のとおり、そうした疑問や心配が、感じ方や理由こそ各種各様ながらすべての人々の脳裡に存在していたからこそだからである。

しかし笑ってしまうのが、オルテガが「ヨーロッパ的掟」について熱弁を振るっている箇所で、オルテガが自らの祖国スペインのことは完全にシカトしていることだ。

ここでいうヨーロッパとは、特にそして正しくは、フランス、イギリス、ドイツの三位一体を意味する。

優れた哲学者はニーチェのいうように、しばしば「反時代的」であり、合わせて祖国の現状について辛口である傾向があるように思う。オルテガも概して自分の祖国には当たりがキツい。

哲学観

このオルテガの哲学に関する表現は見事なものだと思う。

哲学者は大衆の擁護も必要としなければ好意も同情も必要としない。哲学は自己を完全に無益なものに見せかけ、そうすることによって平均人に対するいっさいの屈従から自己を解放しているのである。

自由主義的デモクラシー賛美

オルテガの自由主義支持は熱烈なものだ。

自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。

オルテガの思想的ねじれ(矛盾)

オルテガは大衆は優れた少数者に従うべきだ、ということを『大衆の反逆』の中で繰り返し述べている。一方で自由主義的デモクラシーこそが、人間が現時点で持ちうる最良の政治制度だという。

だがデモクラシーとは、彼のいう愚かで怠惰な大衆人にも平等に一票という投票権を与えるものだ。そして彼らが間違った選択をした場合、それはそのまま政治に反映されてしまう。

そんな危険で、まだるっこしいことをせずに、最初から「優れた少数者」によって統治すればいい。そう考えると、私にはオルテガが貴族主義を掲げつつ尚もデモクラシーを支持したのは矛盾しているように思える。

しかし『大衆の反逆』はその圧倒的な情熱的美文で読者を拉致し去ってしまうので、しばしば読者はその「ねじれ」(矛盾)に気が付かないのではない。

少なくとも私が大学時代『大衆の反逆』を読んだ時には、(私自身の未熟さもあるだろうが)首尾一貫していない、という違和感を覚えた記憶はない。

スペイン人オルテガ

ちくま学芸文庫の巻末解説では、オルテガが祖国スペインの政治に身を投じつつ、望んだほどの成果を得ることなく退場していく様子が語られている。

そもそも大衆への侮蔑を隠すこともなく、しかもそれを動かすことなしには成り立たない政治の世界に身を投ずる、という行為が私には無謀で無思慮に感じられる。

しかしそれを一旦置くとして、私が感じるのは、祖国スペインの民族性(国民性)を悪しざまに言ったオルテガだが、実際には彼自身まぎれもなく典型的なスペイン人だったのだ、ということだ。

バタイユは「アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』について」で、スペイン人の特殊な感性について(それを高く評価している文脈で)詳しく述べ、特に闘牛において、闘牛士が牛の角を紙一重でかわした時にスペイン人が感じている高揚感の正体をこのように要約している。

けれども次の事柄は根本的なことであり続けている。それはすなわち、乗り越えられたという感覚、可能なものの限界が乗り越えられたということ、不可能なもの〔=ありえないこと〕が眼前に現れているということ、である。

いったいオルテガは「自由主義的デモクラシー」について何と述べていたろうか。

彼はそれを「かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反する」と表現しているのである。彼は自由主義・民主主義の「自然に反した矛盾」に惚れ込んでいたのである。

それはまさに「ありえないこと=不可能なこと」だと彼には思えたからである。

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