福田和也の『乃木希典』あるいは「魂の失地の回復」

『乃木希典』はその名の通り、批評家福田和也が書いた乃木希典の評伝である。

福田和也の『乃木希典』

司馬遼太郎の『坂の上の雲』と
福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』

福田は、我が国で「愚将乃木」というイメージを作るもっとも大きな機縁となった司馬遼太郎の『坂の上の雲』を「再読を繰り返してきた」と述べている。

一方で福田は、乃木希典を、自分が考えなければならない宿題のように受け止めるようになったのは、福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』を読んだことが切っ掛けであるとしている。

私自身、乃木希典という人物を自分に切迫するものとして感じるようになったのは、福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』が機縁になっている。

乃木希典の天性

そもそも、乃木は軍人になるような素養を持って生まれたような人間ではなかった。

医師になるのを嫌い、武道・礼法を学び武士になることが許されたという厳格な父は、内省的で線の細い少年時代の希典に厳しかった(福田はそのような父・希次の苛烈さを、武士でない武士集団の新選組に通じるものだ、と述べる)。

妹イネの懐古談によれば、門に立ち止まって、動けなくなってしまうことが、まま、あった。

今の教育論であれば、「子供は無言の内に悲鳴を上げている」とでも表現するだろうような症状が、少年時代の乃木希典には見られる。

学者になるために出奔したことさえあった乃木が、それでも紆余曲折の末、軍人になることを決めたのは、従兄弟の御堀耕助に、学者になるのか軍人になるのか、はっきりするべきだ、と叱責されてからだという。

西南戦争

西南戦争で、希典の実弟の正誼(まさよし)は敵方の西郷軍に与して緒戦で戦死し、乃木の学問上の師であり、弟正誼の養父でもあった玉木文之進は、弟子(前原一誠)や養子の正誼が反乱軍に加担した責を負って、祖先の墓前で自刃している。

また周知のように、この西南戦争で希典は軍旗を奪われ、これは乃木にとって生涯消えることのない汚点となった。

乃木は果敢に前線に出張り、戦死することで汚名を雪ごうとしたが果たせず、処罰を求めて待罪書を送ったが、罪には問われなかった。

乃木は、殉死の際、遺書にこの時の待罪書を付した。

遊蕩からの豹変

西南戦争後、乃木は極度の遊蕩に走る。

心配した母寿子(ひさこ)は、嫁を貰えば落ち着くだろうと考え、それを提案すると乃木は、長州と政治的に敵対関係にある「薩摩の娘」なら貰うと約束する。これはおそらく、母親を諦めさせるための方便だったろう。

しかし母の寿子は、実際に薩摩の女性であるシチとの縁談を成立させる。このシチは、家風に合う名前にするということで、本人に相談もなく「静子」に改名されている。

そうまでしたにも関わらず、母寿子の目論見は外れ、乃木の遊蕩は収まる気配がなかった。ようやくそれが止んだのは、彼のドイツ留学後のことだった。

ドイツ留学

ドイツ留学後、乃木希典は突如として、我々の知るあの「乃木希典」、あの殉死前の軍服姿の写真が連想させるような謹厳実直な軍人に変わる。周囲の者がいぶかしみ、それを尋ねても、「感ずる処あり」と答えるだけで、多くを語らない。

おそらく乃木希典を書く評伝作者の仕事は、この豹変の謎を説明するのが最大の山場であると思われる。

福田は、同じく洋行で、衛生学という狭い専門分野だけを学ぶことを強いられた森鴎外が、その反発から西洋の文学書を濫読させ、後の文学者としての下地を作ったことを引き合いに出し、乃木も、実際に学ぶことを強いられたもの(軍政・軍令)とは別の場所に生きる道を見出したとする。

乃木はモルトケと面談し、その簡素な生活ぶりに感嘆している。

福田によれば、モルトケの簡素さは「合理性の発露」に過ぎないのだが、これを一種の「徳義の発露」と見た乃木希典の特殊な理解、あるいは誤解こそが、その後の豹変を説明する一つの鍵である。

合わせて福田は、当時のドイツ軍の精神的混乱を指摘し、プロイセンの軍事的成功は、ドイツの統一を実現したが、そのためにプロイセンの軍事的伝統がドイツの内部で薄まり、それと異なった中産階級の出世主義が軍に持ち込まれ、「プロイセン的なもの」は単なる意匠・借り物になってしまったと指摘する。その精神的危機を、乃木は「他人事とは思えなかったのではないか」というのが、その後の乃木の豹変に関する福田の説明である。

私は、この説明が完全に成功しているとは思えないが、それでも福田が誠意を尽くして乃木の豹変を理解しようとしているのは伝わる。

ドイツ留学後、乃木は軍の期待を裏切るような、「徳義と名誉」を中心にすえて論じた復命書(留学成果の報告書のようなものか)を提出する。

ドイツで乃木が豹変したとすれば、蕩児が謹厳居士に変じたことではなく、デスペラートな厭世家が、生きる意味を見出したことである。

旅順戦

乃木が旅順戦において大きく指揮を誤った、という説を流布したのは司馬遼太郎だが、これには大きな誇張があるといっていい。

乃木が戦上手ではなかったことは本当だろうが、福田和也が、あるいは巻末の解説で兵頭二十八(ひょうどう にそはち)が書いているように、日露戦争と前後する時代における似た状況の戦闘と比べて、それほど大きな犠牲が払われたわけではない。

巻末の解説で兵頭二十八はこのように述べている(『較案』は造語だろうか。比較・考慮するという意味だろう)。

複数の戦史通が生前の司馬氏を説得しようとして無駄に終わっているのだけれども、旅順攻略戦の一万五千人台の死者数は、一八五四年から五五年にかけてセワストーポリ要塞を攻めた英仏軍の成績などを較案すれば、少数と評価すべきである。

殉死

福田は、乃木夫妻の殉死の報を聞いた時の反応として、島村抱月の「乃木大将の自尽ほど単純でそして強力な出来事は恐らく近年の歴史にないでせう。(中略)理非善悪を超越して、たゞ電気のやうに人々の脳底にあツと言ふ一感動を与える」という言葉を引いているが、もっとも共感を覚えるのは徳富蘆花のものだという。

余は息を飲むで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
斯く呟きつゝ、余は新聞を顔に打掩ふた。

魂の失地の回復

最近テレビで流行り始めた、外国人が日本の文化や技術を感嘆する、といった「日本の素晴らしさを伝える」式のテレビ番組を、私は息を呑むような気持ちで見つめている。

一見浮薄で浮かれ過ぎとも見えるこうしたお国自慢の中に、健全な祖国愛もまた存在しているのだが、それは或いは「最後の花火」のようなものなのか。それともいずれ本物のうねりとなり、好機との巡り合わせによって、日本の真の自立へと繋がるものなのか。

こうした思いで私は、それを息の詰めつつ見つめているのである。

だが一方で、今この国ではDA PUMPの「U.S.A.」のような歌が流行っている。そしてヒップホップのダンスを学校で教え、某国と同じ裁判員制度を採用し、某国にあるようなカジノを作ろうとしている。

もう既にこの国はただの「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国」(「果たし得ていない約束」三島由紀夫)に過ぎないのか。

私はある本を読んで、そこに登場した右翼人の言葉に感銘を受けたことがある。おそらく、「民族主義運動とは何でしょう」という問いかけに対する答えだったと思うが、その右翼人はそれを「魂の失地の回復」と表現したのである。

「魂の失地の回復」とは何と見事な表現だろうか。

例えば北方領土を取り戻すこと、あるいは無根拠な防衛費上限の撤廃は、きわめて重要な問題であろう。しかしそれすら、本当に重要な問題に比べれば、枝葉の問題に過ぎないのである。

私は『乃木希典』を読んで初めて、福田和也が明治や昭和の日本を主題に選んだ諸々の著作で何をしようとしているのかが分かった。

それは私が「やらなければいけない」と口では言いつつ、怠けて怠っていることだ。つまり日本を見出そうという試みであり、日本を取り戻そうという作業であり、あるいは「魂の失地の回復」なのである。

イギリスのEU離脱の決定、トランプ大統領の誕生、ヨーロッパにおける難民問題、ロシアがプーチンのもとで再び存在感を増しているということ、こうし...

こうした試みが全て失敗に終わるなら、日本は徐々に溶解し、消滅するだろう。例えその時、「日本」という国号が残っていたとすても、そうなるだろう。

もし日本が死んだ時、その時には「日本が死んだ」ということにすら、誰も気づかないに違いない。というのも、その時には悼む人が誰もいないか、もしくはあまりにも少数なので、小さな声でしかその訃報が伝えられないからだ。

日本は、スパルタのような伝説的都市国家のように、都市や国の名にかろうじてかつての名残を留めるだけになるだろう。

そしてその時には、我々がスパルタについて聞いて、「そんなことがあったとは到底信じられない」とか「私は半信半疑だ」とか言うように、実際に存在した我々の父祖の美徳や武勲は、あるいは半ば伝説であり、誇張された作り事のように受けとめられるのかもしれない。

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