二つの記述から見るニーチェの思想とユングの直観との根本的対立

ニーチェの思想とユングの直観との根本的対立

ニーチェの思想とユングの直観には根本的な対立がある。

ニーチェ

『ツァラトゥストラはこう言った』の記述。

「偶然」――これは、この世で最も古い貴族の称号である。これを、わたしは万物に取りもどしてやった。

ユング

『原型論』の記述。

私をとりまく全世界はまだ原初の静けさのうちにあり、自分が存在していることを知らなかった。そして私が知ったまさにこの瞬間に、世界は生まれたのであり、この瞬間がなければ世界は決して存在しなかったであろう。この目的をこそ全自然が求めているのであり、それは人間において、しかもつねに最も意識的な人間においてのみ、成就されるのである。(原文では『最も意識的な人間』に傍点)

ニーチェの「偶然」

ニーチェにとっては存在世界は「偶然」を本質とする。

彼の「生成の無垢」という用語もそれに由来する。

「生成」は「存在」を動的に捉えた言葉だが、「無垢」という語には「目的を持たない」という含みがある。

実際、前述の「ツァラトゥストラ」の言葉には「わたしは万物を、およそ目的にしばられた奴隷制から救いだしてやった」という言葉が続く。

それならば、世界が持ち得る「意味」は、徹頭徹尾、良く言うなら人間の「独創」であり、世界は人間が与える以前には「意味」など持たず、元来「無意味」ということになる。

ユングの「意識」

ユングは『原型論』でその直観を率直に(『思想』、つまり『論理的な考察に由来する確信』と言うよりかは)「信仰告白」と述べているが、彼は「アフリカのアサイ平原」での体験から、直観的に「世界は人間の(高度な)意識性を待ち受けていた」と考える。

それならば、「世界」、つまり「存在の全体」は、「表象され、認知されるために在る」ということになる。

つまり人間が「意味」を与える前から、元来「認識される対象」としての「意味」を持つことになる。

対立

この二つの「見解」の対立は、他のあらゆる対立にも増して根本的なものと思える。

ユングの見解は、別の側面から言えば、「世界は人間のために創造された」という「(ユダヤ=)キリスト教的世界観」に近い。

「ユングはクリスチャンだからそう考えただけだ」と簡単に片づけることも可能だが。

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