『善悪の彼岸』のニーチェのアフォリズム「いたわりつつ殺す手を…」

ニーチェの『善悪の彼岸』(69節)におけるアフォリズム「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない」を解釈する(説明する)。

「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない」

比喩を用いた説明

比喩を用いて説明してみる。

あなたは田舎の長い道を同乗者一人を乗せて車で走っていた。

すると、前の車に轢かれたらしき子猫を見つけた。

あなたは車を止めて、同乗者とともにその子猫に歩み寄ると、その子猫は酷い傷を負って、息も絶え絶えだ。

あなたと同乗者は子猫を不憫に思い、近くに動物病院でもないかとスマホで調べてみるが、一番近い場所でも、車で一時間弱はかかりそうだ。

子猫は一息一息が苦しそうで、放っておけば10分か15分ほどで死ぬだろう。

あなたは「諦めるしかない」と言い、その場を去ろうとする。

すると、同乗者が「子猫が苦しそうだ。とどめを刺して少しでも早く楽にしてあげよう」と言う。

あなたにはそんな発想がなかったので、同乗者の言葉にギクリとする。

あなたは同乗者に嗜虐的な趣味があったのでは、と一瞬疑ってしまうが、同乗者の真剣な表情から、そんな疑いはすぐに打ち消してしまう。

だがあなたは、助かる見込みがないとは言え、「殺す」という行為に抵抗を感じて、わずかな間だけ同乗者と押し問答になる。

しかし、あなたは同乗者に、「こんな苦しい状態での10分、15分は、健康な状態での5,6時間のように長く感じるだろう。もちろん『言い出しっぺ』なのだから責任をもって私が自分でやる」と言われると、それ以上あらがう気になれず、同乗者の意見に賛同する。

子猫は瀕死の傷を負っているので、かすかに誰かの手が触れただけでも激痛が走るだろう。

同乗者は、なるべく不必要な苦痛を与えないように、ゆっくり、静かに、両手を伸ばして、子猫の体に触れ、子猫を殺そうとする。

その時の「同乗者の手」、それが「いたわりつつ殺す手」である。

解釈

いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない

「人生をきびしく見た人ではない」の「見た」は、実際に視覚上の「見た」や、あるいは経験的な意味で「そうした状況があったことを知っている」という意味に留まらず、「想像裡に見る」ことも含めて解する。

つまり、「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は」とは、「そうした状況を現実に見たことも心の中で想像したこともないような人間は」となる。

「人生をきびしく見た人ではない」とは、「まだ人生の厳しい側面について何も知らない無邪気な子供のようなものだ」と解する。

全体を通して解するなら、「いたわりの気持ちを持ちつつも、むしろ『持つがゆえに』殺さざるえない、そうした状況を見たことも、想像することすら出来ないような人間は、まだ人生の厳しさを知らない無邪気な子供のようなものだ」となる。

無邪気な子供

私が用いた「無邪気な子供」という表現は、「善をなそうという意志があれば善をなすことができ、悪を避けようと思う気持ちがあるなら悪を避けることができる」と無邪気に信じ込んでいるような人、ぐらいの意味である。

「子猫の比喩」で言えば、「同乗者」は「子猫」を不憫に思い、その苦しみに胸を痛めればこそ、「子猫の殺害」という「悪」をなした。

つまり、「子猫への憐れみ」という同乗者の「善き意思」が、その「子猫の殺害」という「悪」へと同乗者を促したのであって、「善を望めば善が手に入る、少なくとも悪を得ることはない」という無邪気さは、「諸々の現実の状況」の前ではしばしば打ち砕かれる、ということだ。

類似の言葉

ニーチェの言葉とは別の場面に状況を限定することになるので、完全に同じ意味とは言えないが、強いて言うなら大岡昇平の「戦争を知らない人間は、半分は子供である」(私自身は読んでいないが、『野火』の中で使った言葉らしい)という言葉に、似たニュアンスを感じ取ることができる。

大岡の言葉は言い換えるなら、「〈戦争〉という厳しい局面を知ることで、初めて人間は成熟する(半分子供の状態から卒業する=大人になる)ことができる」という言葉だ。

ニーチェの「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない」は、そのまま「人生の厳しい局面を見ることで、人生の厳しさを知ることができる」という言葉だが、「人生の厳しさを知る」を「人間的に成熟する」と解するなら、ほぼ「大人になる」と同じ意味になる。

その言葉の置き換えを採用するなら、ニーチェのアフォリズムは「人生の厳しい局面を見ることで、人は大人になることができる」となるので、二つの言葉は類似しているように思える。

フォローする