ニーチェ「たとえどういう結果になろうとも、真理は語られるべきである」

ちくま学芸文庫から『生成の無垢』として出版されているニーチェの遺稿の中に、『教育者としてのショーペンハウアー』を書いた時期の、「自然は善ではない」から始まるアフォリズムが収録されている。

「何ものをもいたわるべきではなく、
たとえどういう結果になろうとも、
真理は語られるべきである」

その末尾は、「何ものをもいたわるべきではなく、たとえどういう結果になろうとも、真理は語られるべきである」という言葉で結ばれている。

思うに、認識において、何よりも「いたわるべきではない」ものこそ、己自身なのである。

もし、そのように己をいたわりながら、自己にとって好ましいことだけを真理として認めるならば、知的な探求は常に行き先や方向性を制限され、思惟は自由を失って、いつも予定された通りの場所に着地することになる。

しかし、こうした形の探究は、しばしば通例であり、対象が抽象的で実証性を持ち得ないほどに、その傾向が強くなっていく。「己が信じたいように知る」という、そのような探求に、いったいどんな積極的な意味を見出せるだろうか。

認識者の自己犠牲

思うに、ニーチェにおいてもっとも称賛すべき点は、その思惟の独創性でもなければ、人類史を俯瞰した壮大な思想性でもない。

彼が認識に捧げた途方もない自己犠牲こそが、何よりも感嘆すべきことなのである。

彼が発狂した、というよりもむしろ発狂しえた、ということこそが、認識における未聞の出来事であり、およそ例のない異常な出来事なのである。

軍事的な自己犠牲や生活上の自己犠牲は、これまでも見られたもので、たしかに称賛すべきものとはいえ、人類の長い歴史を見渡してみたなら、けして稀有な出来事とは言えない。

しかし、抽象的な認識に己を賭け、およそ確実でない後世の名誉以外は何も得る予測もないままに、このような大きな犠牲を払いえたということは、実際にあったこととはいえ、到底信じがたく、思い起こすたびに幾度でも驚嘆に値する出来事だ。

ユングのニーチェ観

心理学者のユングは、その『自伝』の中で、ニーチェについて批判的な批評を加えている。

そのすぐれた才気ゆえに、彼は何かがうまくいっていないことにタイミングよく気づくべきだったのに。これは私には彼の致命的な誤解だと思えた。つまり彼はそんなことを全く知らず理解もしない世間に自らの№2を大胆に怪しみもせず明かしたのである。彼は自らの恍惚を分ち、「彼のあらゆる価値の転換」を理解しうる人々を見出したいという子どもっぽい望みに駆られたのだった。

しかし、誤解しているのはむしろユングの方なのではないかと私には思える。

ニーチェは「うまくいった」からこそ発狂したのであり、ユングの眼に「うまくいっていない」ように見えたことこそが、「うまくいった」ことなのである。

彼の言う「うまくいく」とは、所詮彼にとっての「うまくいく」に過ぎず、端的に言うならそれは「世間と軋轢を起こさないことと知的業績の確立とを両立させること」なのだろう。

だが、もしそうであれば、ゴッホも吉田松陰も「うまくいかなかった」ことになるが、そうした意味での「うまくいく」ことに意味があるのは、長命が大きな意味を持つような事業の遂行者にとってであり、少なくともニーチェがその種の人間であったとは、私には到底思えないのだ。

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