李相日監督の映画『怒り』の印象 憎しみの無差別性と怒り

※ネタバレあり。

この映画を見て、私は最初、『怒り』というタイトルは間違っているのではないか、と思った。

何故なら、『怒り』の犯人の心にわだかまっていたものは、怒りではなく憎しみだからだ。

憎しみと映画『怒り』

苦労について

昔の人はよく「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言ったものだが、どうだろうか。

私には、苦労は人間を鍛える良い面と、一方では、人間性を捻じ曲げて歪ませてしまう悪い面と、両方があるように思える。

そして、その両面のどちらがより強く出るのかは、まったくその人次第だといえる。

つまり苦労によってその人が良くなるのか悪くなるのか、良いものを得るか悪いものを得るかは、苦労する以前には未知数で、いわば苦労にはその意味においてギャンブル性があるように思えるのだ。

憎しみ

あまりに多くの苦労を重ね、その中で怒りをひたすら我慢することを覚えると、一般に人が苦労することで得られると期待されているものとは別種のものが形成されてしまうように思う。

憎しみとは、消化されずに腹の中に積もった怒りだと私は思う。

怒りは、発散されずに我慢するだけだと、腹の中に澱のように積もってゆく。

そして徐々に凝固して、堅いものになってゆく。

それが憎しみだ。

いわば、怒りが水ならば、それが凝固した氷が憎しみなのだ。

憎しみには、怒りにはないある特徴があるように思える。

それは向けられる対象の無差別性だ。

だから人間を憎んでいる人は人間なら誰でも憎む。

男を憎んでいる人は男なら誰でも憎む。

女を憎んでいる人は女なら誰でも憎む。

子供を憎む者は子供なら誰でも憎む。

映画『怒り』の犯人の心について

犯人が抱いていたのは、怒りではなく憎しみだ。

憎しみだからこそ、誰に対しても無差別に向けられる。

だから何の恨みもなく、自分に信頼を向けた広瀬すず演じる小宮山泉がレイプされても、心の中で喜んでいる。

いや、「自分を信頼した」ということすら、憎む理由になりうる。

というのも人間は、自分が許されなかったことを他人にも許さないものだからだ。

犯人は誰のことも信じていない、だから「自分を信頼した」ことすら憎しみの理由になりかねない。

私は、『怒り』というタイトルは間違っているのではないか、と書いた。

だが正しいのだ。

何故なら憎しみの正体とは凝固した怒りだからだ。

犯人が派遣社員を、特に日によって現場が変わるタイプの派遣をしていたことも、とてもリアルだった。

私もその形態の派遣社員をしたことがあるが、他の理由もあるが、「とても精神的にもたない」と今でも思えるほど精神的に鬱屈する仕事だった。

最後に

これほど見応えのある映画を作ったスタッフとキャスト、原作の吉田修一氏、何よりこのような憎悪に満ちたリアルな犯人像を描き切った李相日監督、それを演じ切った森山未來さんに喝采を送りたい。

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