全然タイムリーでも何でもない話題だが、以前絵本作家の「のぶみ」さんが作詞した『あたしおかあさんだから』という歌が炎上騒動を起こしたことがあった。
それについて考えたことを書いてみたい。
『あたしおかあさんだから』の炎上
私も気になって歌詞を見てみたが、それほどひどい歌詞とは思わなかった。
炎上したこと自体は理解できる。
だがその「理解」は「これは炎上するに値する」という意味での「理解」ではない。「これは今の時代には炎上するだろうな」という意味での理解に過ぎない。
母親の自己犠牲を賛美
『あたしおかあさんだから』への批判に「母親の自己犠牲を賛美している」というものがあったが、育児には多かれ少なかれ自己犠牲的な面があるのは確かだろう。
それなら、なぜ母親の自己犠牲を賛美することが問題なのだろうか。
逆に、何も失わずに育児することができるという発想もまた歪(いびつ)ではなかろうか。
母親たちの苛立ち
私がこの騒動から感じるのは単に、多くの母親がピリピリしながら苛立たしい気持ちで育児をしているのだな、ということだけだ。
そしてそこに「苛立ち」や「怒り」があるからといって、それと共に「道理」まであるとは限らない、ということは言うまでもない。
また歌詞がそのように否定的に捉えられる、というのも個人の印象でしかないと思える。
ホフディランの『スマイル』
それで思い出したが、以前ホフディランの『スマイル』を聴いていて感じた自分の印象だ。
私の歌の聴き方というのは、周囲の人にどんな聴き方をするのか訊いて比較したわけではないので断定はできないが、自分では少し変な聴き方をしていると思っている。
例えば、ある一つの曲が気に入ると、しばらく何時間や何日という間、ひたすらその一曲だけをリピートして飽かず聴き続けるのだ。
『スマイル』の歌詞は残酷か
ホフディランの『スマイル』もそんな感じで繰り返し聴いた時があった。
すると、繰り返し聴いているうちに、最初は気にならなかった歌詞が(悪い意味で)気になってきた。
というのも、その歌が何か残酷に思えてきたからだ。
私には徐々に『スマイル』の歌詞が、涙を流している女性に無理矢理に笑顔を強いるような歌に聴こえてきた。
『スマイル』という歌は、歌詞に登場する女性に対して、ある部分では「完璧さ」を否定しているように見せつつ、その一方で「常に笑顔でいるように」という別種の「完璧さ」を要請している、そんなアンビヴァレンツなメッセージを含む歌に聴こえてきたのだ。
歌詞の勝手な引用は問題になる場合があるとも聞くので、該当箇所の具体的な引用は省くが、要約するなら徐々に私の『スマイル』の歌詞に対する印象は、「常に笑顔でいられないのなら、あなたは子供だ」という意味に集約されてきて、私は何か嫌な気持ちになって聴くのをやめてしまった。
だが私は「ホフディランの『スマイル』の歌詞はとても残酷だ」と主張しているわけではない。「人によってはとても残酷な歌詞に聴こえることもあるだろう」と言っているに過ぎない。
だから私は誰かが「ホフディランの『スマイル』を聴くととても嫌な気持ちになる」と言っても驚かない。
しかし一方で、誰かが「ホフディランの『スマイル』を聴くと温かい気持ちになる」と言うのを聞いても、ただそれだけなら別に否定しようとは思わないだろう。
そして『あたしおかあさんだから』の歌詞に向けられた批判も、その程度のものでしかないと思っている。