『エセー』の著者 モンテーニュについて

パスカルとニーチェのモンテーニュ評

パスカルは『パンセ』の中でモンテーニュの欠陥を指摘している。

第二章六二。

彼が自己を描こうとした愚かな企て。

また、同じく六三。

モンテーニュの欠陥は大きい。

一方でニーチェは、若き日に書いた『反時代的考察』の中で、モンテーニュをショーペンハウアーと同様、「正直」と「真の晴朗」を持っていると激賞している。

私自身のモンテーニュ観

私自身はといえば、哲学者としては、それほどモンテーニュを評価する気にはなれない。

たしかに、彼の著書『エセー』の読み物としての面白さは無尽蔵なものだ。

古代ギリシャ・ローマからの引用が豊富な(パスカルの言葉でいうところの)彼の「異教的」立ち位置は、私にストア派についての関心をかき立ててくれたし、死は万病に効く薬なのだと説いた「ケオス島の習慣」の序盤の言葉に深く感動した思い出もある。

また、モンテーニュが「もっとも傑出した男たちについて」の章で、歴史上もっとも偉大な三人の男として、ホメロス、アレクサンダー大王、そして最後にエパメイノンダスを挙げている点も面白い。

だが著述家としてではなく、哲学者としての彼は、それほど偉大な人間だろうか。

たしかに彼はニーチェのいうように正直なのだ。

自分の美点にも欠点にも何の屈託なく言及する。

それがパスカルには我慢ができなかろうと、私自身はそれを大きな欠陥とは思わない。

私が気になるのは、彼には、偉大な哲学者が必ず持っている真剣味を欠いているということだ。

それは、あるいは読み物としての『エセー』の面白さの基礎にもなっているのかもしれないが、彼は、哲学の議論を、何かの競技か思考の戯れのようにとらえているように見える。

彼がもっとも入れ揚げた哲学者が、懐疑主義のピュロンだということは大変示唆的だ。

もし彼がピュロンを、真剣に「もっとも真理に近い位置にいる哲学者」と信じていたなら、それでもいい。

だが私には、とてもそうは思えないのだ。

彼がピュロンに見い出したのは、真理への近さではなく、けして敗北しない思弁の方法なのではないか。

ピュロンは何事も断定しないのだから、他の認識者が誰でも出会う、真理と言明との不一致によって敗退することはありえない。

ゆえに、ピュロンの方法は無敵なのだが、そのような力にどの程度の価値があるのだろうか。

私は、ピュロンや彼の哲学それ自体を否定しているのではなく、モンテーニュがピュロンを気に入った、その気に入り方が、あまり宜しくないように思えるのだ。

最後に

もし、単的に自分のモンテーニュ観を述べよと言われたら、私はこのように言うだろう。

「モンテーニュは正直だが、誠実ではない」と。

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