漫画『ベルセルク』の作者・三浦健太郎氏が54歳という年齢で死去したそうです。
この訃報にからめ、以前から考えていたことも含めて書いてみました。
あるいは死者に鞭打っているように感じられてしまうかもしれませんが、どうかご容赦ください。
三浦健太郎氏の訃報、そして神について思うこと
『ベルセルク』について
私は、総体として『ベルセルク』という作品からうかがえる三浦の人間性というか思想が好きにはなれませんでした。
単純にエンタメとして見た場合には『ベルセルク』は面白い漫画だとは思いますが、以前に読んで不快に思った記憶があります。
うろ覚えですが、父親の性暴力被害に合っている少女に、主人公のガッツが厳しく冷たい自己責任論じみたことを言い放つシーンがあり、そのストーリーのラストは少女が自分自身でできる範囲で自分を救おうと気持ちを切り替えるシーンであったと思います。
要するに三浦は、そうしたガッツの所作をカッコいいと思う感性なのだということが理解でき、これはいい大人が非常にお寒いことです。
まず、そのような境遇の少女はどんな欺瞞を用意してでもとりあえずは耐え忍ぼうとするのは自然であり、そうした姿勢を否定することはあまりにも空想的で幼稚な抵抗思想だからです。
最近はまったく読んでいないので詳しく知らないのですが、他にも同作には「祈るな!祈れば手が塞がる!」というセリフがあるらしく、これも同じく非常に馬鹿げた表現です。
祈ることは必須とまではいえませんが善いことには違いなく、こうしたこと(所作・セリフ)をカッコいいと思って作品に描いてしまう感性はやはりお寒いものだと思います。
三浦健太郎氏の死について
だからといって私は、三浦の死は神罰が下ったのだなどと宣(のたま)うつもりはありません。
しかし人の死の時期についても一定の理由や必然性は存在するらしく、ポジティブETとのチャネリング文書である『ラー文書』によれば、アメリカの軍人ジョージ・パットンが第二次大戦が終わってすぐに死んだのは、アセンションに向けた次の転生を早く準備しなければならなかったためだそうです。
三浦の死因である急性大動脈解離は、これといった前触れはなく起こり、早く適切な対処をしないと致死率もかなり高くなるそうで、三浦の死は直近に迫った地球のアセンションと関係しているのではないかと思います。
個人的には今回の三浦の唐突な死は、三浦の魂が私が先に指摘したような馬鹿げた道に踏み迷ってしまったために、いったん仕切り直さなければならないと判断した三浦自身の高次の意識(たとえばハイアーセルフのようなもの)が招いたものなのではないかと推測しています。
未完に終わる三浦の作品にどれだけのファンがいようと、輪廻による魂の向上という高次の目的からすれば些細な問題にすぎないからです。
「神の計画」‥‥(笑)
スピリチュアルな話題に踏み込んだのでこれをもう少し続けようと思います。
現在行われているいわゆる「光と闇の戦い」について、光が勝つことを「これは神の計画です」と言う人がいます。
「神の計画」‥‥(笑)
これは「噴飯モノの迷言」と言わざる得ないでしょう。
光と闇の戦いにおける光の勝利が「神の計画」だというのなら、「そもそもなんでこんな戦いを闇側が起こすことを許したのか」と神にクレームを入れるべきでしょう。
あるいは、神は予想外に闇側が反逆したことで、自分が油断したことのツケを払ってるとでもいうんでしょうか。
神はせいぜい自分のケツを拭くのに忙しいことでしょう。
そしてもっとも重要な点は、「神の計画」と言う人は、この世界の大まかな部分、つまり光と闇が戦い、最後に光が勝利するという大まかな筋書きだけを神が決定しており、細かい筋道は我々の自由意志に委ねられているとでも考えてるんでしょうか?
それこそ甚だしい思い違いです。
神が決定するのは「すべて」であり、ある部分は神に、他のある部分は人間や悪魔に委ねられる、といった例外など存在しないからです。
あるいは「神の計画」なんて言った人はこう思ってるんでしょうか。
自分達は正義であり善人の側だから、闇側の悪人たちより神に愛されており、依怙贔屓(えこひいき)してもらえる、と。
これも同じく甚だしい思い違いで、神はそういう意味での依怙贔屓をしたりはしません。
なぜなら悪人が悪人として生きることも含めて神の意志がすべてを決定しており、神自身が配役した「悪人役」を演じる人間を嫌うなど、そのような不条理は起こりえないからです。
先に私は三浦の思想や感性について否定的なことを述べましたが、そうした三浦が間違った道に踏み迷った(とすればその)ことすら、すべては神が決定しているのです。
ラマナ・マハルシ「どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える」
もちろん私は悟りを開いているわけではなく、こうしたことをスピリチュアルな道の先達である覚者から学んだだけです。
私はある時、インドの覚者であるラマナ・マハルシの言葉を記録した書籍『ラマナ・マハルシの教え』の中にある「神の意志によらずしては何ごとも起こらない」という言葉が腑に落ち、そう考えるようになりました。
厳密にはその言葉を読んですぐに腑に落ちたわけではなく、ラメッシ・バルセカールの『誰がかまうもんか?!』で同じことを説明している部分を読んで腑に落ちたのですが。
最後にラマナ・マハルシが「もっとも優れた帰依者」について尋ねられた時の答えでこの記事を締めくくろうと思います。
同じ文は山尾三省訳の『ラマナ・マハルシの教え』の中にもありますが、その箇所は福間巌訳『あるがままに』の方が美しいと思うので、そちらから引用します。
「もっとも優れた帰依者」について尋ねられたインドの覚者、ラマナ・マハルシは、「神である真我に自分自身をゆだねきった人が最もすぐれた帰依者である」と答えました。
さらにそれが意味するのは、「真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである」と述べた後でこのように続けています。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして安心しなさい。