『男と女の哲学』男女の雄性・雌性とジェンダーの関係性

ここでは身体を除く男女の相違、それもジェンダーによる社会的・文化的影響とは無関係な、男女の内的・心的な相違について考察し、その男女の内的・心的な相違(固有性)を骨組みとしてジェンダーが肉付けを与えることで、男性性や女性性が形成されていることを解説する。

またジェンダーによる社会的・文化的影響とは無関係な男女の内的・心的な相違を見つける(存在を立証する)ために、その方法論として、まずはフェミニズムによってしばしば前提されている、それぞれの性の内的・心的相違は完全に社会と文化によって形成されるという「性の社会決定論」を前提として引き受けた上で、性同一性障害の考察を通じてこれに反証し、それによって男女の内的・心的相違を立証する。

男の雄性と女の雌性

性の社会的・文化的決定の仮説

もし男女に内的・心的な相違があるとすれば、それは男女それぞれが異なる固有性を持つということである。フェミニズムでは、特に女性の内的・心的固有性は社会的・文化的影響によって決定されると論じられることが多い。

その際、主張される仮説を男女両方において受け容れるならば、我々は理論上、既に社会によって男性的あるいは女性的な内的・心的固有性を形成された後の男女しか見ることができないことになる。

これの代表的なものはジョン・マネーの『性の著名』におけるもので、(仮説上)性自認が固定化される2歳までならば幼児は内的には白紙の状態であるために、性自認およびそこから派生すると仮定されている女性的あるいは男性的な行動・発想の様式は人為的に形成可能であるというものである。

『ブレンダと呼ばれた少年』は、カナダのジャーナリスト、ジョン・コラピントによるノンフィクションであり、ジョン・マネーという性科学者が、自説の...

この「2歳」という期限を無視して要約(単純化)するならば、性の社会決定論とは「男あるいは女は如何なる内的固有性も持っておらず、そう見えるものは実際には後天的に社会的・文化的に与えられたものに過ぎない」ということである。

性同一性障害の考察

性同一性障害の考察に入る前に、私がここで性同一性障害をどのように規定しているかを先に説明しておく。三島由紀夫は『小説家の休暇』でこのようなことを述べている。

もちろんわれわれの眼に映る範囲では、女性的特色をもった男色家はたくさんいる。熾烈な女装の欲望を抱いた男もあれば、男の言葉を使うことにゆえしらぬ困難を感ずる男もある。しかし無智な人間ほど、面白いことには、男色の本質的特異性がつかめず、世俗的な異性愛の常識に犯されてしまうのである。その結果、どうなるかというと、自分が男のくせに男が好きなのは、自分が女だからだろうと思い込んでしまう。人間は思い込んだとおりに変化するもので、言葉づかいや仕草のはしばしまで、おどろくほど急激に女性化してくる。

私はもちろん、もし三島が解説しているような例があるならば、それを「性同一性障害」とは呼ばない。妙な言い方になるが、私がこれから考察するのは「純粋な」性同一性障害である。つまり当人の性的志向など、別の原因によって自己の性同一性を誤解したようなものではない(そして双葉社による『性同一性障害30人のカミングアウト』を読む限り、性的志向は性のアイデンティティとは必ずしも関係を持たない。例えば同性愛の性同一性障害者は意外に多い)。

ここから性同一性障害の考察に移るが、性同一性障害の原因について、仮説上は「脳の性分化」が身体と逆であったことが原因であると説明されることが多い。

しかし、ここではその「脳の性分化」については深入りしない。だがどうしても「心的・内的」という言葉が引っかかる人は、「心的・内的」という言葉を「脳の活動における」という言葉に置き換えて読んでほしい。

ジェンダーフリーとは、フェミニストを中心にして為されている「男らしさ・女らしさ等の性規範は撤廃されるべき」という主張であるが、これを否定する...

上の記事と似た内容になるが、もう一度論ずる。

多くの場合、我々は生まれるや否や身体によって男であるか女であるかを判別され、その後、それに応じた男子としての扱いと女子としての扱いに取り巻かれることになる。

特に社会決定論ではこのような状況は強調され、それによって男女それぞれの内的固有性が決定されると考えられている(このような性の社会的決定力は、フェミニズムでは常に漠とした形であれ前提として取り入れられている)。

性同一性障害者も、我々の全てがそうであるように、まさにそのような状況で育てられることになる。ところが、周囲の社会的扱いはまさに身体と合致した扱いをされるにも関わらず、それによって内的な固有性は身体と同じものが決定されることはない。

それどころか、最終的に身体と逆の性自認に至る。

男女の内的・心的相違

多くの場合、性同一性障害者は、あたかも大海の真ん中に突如として一つの孤島が現われるように「性自認」という認識だけが現われるのではない。

性同一性障害者が「自分は身体と逆の性別であるべき」という結論を得るまでにかかる時間はまちまちだが、その結論に至る根拠となったものは純粋に内的な感覚である。注意すべきは、この純粋に内的な感覚は「身体における違和感」だけではないということである。

我々は昔ほど強い強制力を持っていないとはいえ、未だに男女のジェンダーが分化している社会に生きている。したがって性同一性障害者が感じる違和感は、いわばセックス(身体)の違和感とジェンダーの違和感との二重のものである(※)。

※意地悪く考えれば、この二重の違和感は後付けであると推測することもできる。つまり性同一性障害者は、まず自分の肉体(セックス)に違和感を抱く。そのために逆の性別の身体(セックス)を希求し、次いでそのセックスが属しているジェンダーを希求する、という風に。しかし性同一性障害者の証言を虚心に聞く限り、このセックスとジェンダーの違和感は、その個々人によって差異はあるものの、やはりそのどちらも存在しているように見える。

これは性同一性障害者が当初、移行を希望する(身体と逆の)性別として扱われていない以上、個人の外部からの社会的・文化的な(つまり身体が属しているジェンダーによる)働きかけが原因として発生するわけではない。

何故なら、家族、学校、地域社会、戸籍、あらゆる部分でその人は(肉体の性と同じ)男あるいは女として扱われ、それどころか当人の肉体ですら、当人が(肉体の性と同じ)男あるいは女であることを説得しようとするからである。

にも関わらず、性同一性障害者は最終的に、自分の性が肉体の性とは異なり、それとは逆の「男」あるいは「女」だという自覚に至る。つまり性同一性障害者の内的・心的固有性は、社会的・文化的感化力としてのジェンダーを跳ねのける形で、全く自発的・自律的に当人の内面から立ち上がる。

ゆえに、女性の内的・心的固有性や男性の内的・心的固有性は社会的な感化力(ジェンダー)がなくとも存在すると言える。こうして、まずは男女それぞれの内的・心的相違、つまり内的・心的固有性が確認されたことになる。

ところで男と女はともに人間である。つまり男女はともに共通の特徴として「人間性」と呼べるものを持っている。(ここではヒューマニスティックな意味におけるそれではなく)この人間性は人間の高度な学習能力を保証する特徴である。したがって自由性と同じ意味におけるそれである。

そして男女からこの「人間性(=自由性)」を差し引いた場合、つまり「人間としての男」「人間としての女」から人間性(=自由性)という共通項を差し引いた場合、そこには「雄としての男」「雌としての女」が残されることになる。この「雄としての男」の性質を「雄性(ゆうせい)」、「雌としての女」の性質を「雌性(しせい)」と呼ぶことにする。

ゆえに同様に、女性から男性へと性転換を望む性同一性障害者(FTM)および(性同一性障害者ではない)一般的な男性の共通項は雄性であり、男性から女性へと性転換を望む性同一性障害者(MTF)および(性同一性障害者ではない)一般的な女性の共通項は雌性であるということができる。

男のジェンダーは雄性と
女のジェンダーは雌性と親和的である

そしてもう一つ注意すべき点は、もし性同一性障害者の雄性や雌性と、社会的・文化的な性別規定(ジェンダー)とが何かしらの点で親和性を持っていなければ、なぜ性同一性障害者は自己の本来の性別に気付き得ただろうか、ということである。

例えば、極端に単純化し、この世界にある唯一の男のジェンダー(性の社会的・文化的様式)は「青い服を着ること」、唯一の女のジェンダーは「赤い服を着ること」であったとする。

その世界では、男性から女性へと性転換を望む性同一性障害者(MTF)は、「私はどうしても赤い服が着たい」とか「青い服は嫌だ」という自分の心(雌性)に気づくことによって性自認に至る。

同じく女性から男性へと性転換を望む性同一性障害者(FTM)は「私はどうしても青い服が着たい」とか「赤い服は嫌だ」という自分の心(雄性)に気づくことによって性自認に至る。

この場合、その世界での「男は青い服を着る・女は赤い服を着る」というジェンダーは、その世界での女の雌性としての「赤い服が着たい」または「青い服は着たくない」と親和的であり、男の雄性としての「青い服が着たい」または「赤い服は着たくない」と親和的であると言える。

つまり性同一性障害者は、性別の社会的・文化的規定の内の何かしらを、「こちら(心の性=肉体と逆の性)の方が今のもの(肉体の性)よりも相応しい」と感じるからこそ、自分の本当の性が肉体の性と逆であると気付き得た。

実際、我々の社会では男女それぞれのジェンダーが分離して存在する以上、性同一性障害者が性転換を望む時、現在の身体的性別と逆のセックス(身体)とジェンダーとを同時に選び取っている、ということを意味する。

したがって、男性の雄性は男性のジェンダーと、女性の雌性は女性のジェンダーと、何かしらの点で親和的な性質を持っていると言える。

ジェンダーと雄性・雌性

ジェンダーの意味

ここから、ジェンダーの意味について考察していく。

まず我々は生まれるや否や男女のジェンダーによって取り巻かれ、男は男として、女は女として扱われる。しかしジェンダーは原則として、(個人的資質にもよるが)その男や女の雄性や雌性と親和的であるから、そのこと自体は問題ではない。

しかしこうして我々は、生得的な雄性や雌性と親和的であったとしても、なおやはり生得的には存在しないような性質を幾つも会得していくこととなる。これは例えて言うならば、醤油(=男女それぞれのジェンダー)の海にひたされた豆腐(=個々の男女)の内部に、徐々に醤油が浸透していくようなものである。

つまり生得的な雄性や雌性を骨組みとして、その骨組みにジェンダーによる肉付けが与えられて、自己の男性性や女性性を形成されていく。

言うなれば、素材としての雄性と雌性を、ジェンダーという道具が男性性や女性性へと仕上げていく。したがって、こうして形成された男性性の内部には雄性が、女性性の内部には雌性が含まれることになる(下図)。

このようにして我々人間は、男性は男性らしい、女性は女性らしい仕草や所作、服装等を身に付けたり、どちらかの性別が多数を占めやすい職業を選んだりする。

「髪の長短」の考察

ところで、私は「男性の雄性は男性のジェンダーと、女性の雌性は女性のジェンダーと、何かしらの点で親和的な性質を持っている」と述べたが、注意してほしいのは「雄性から男性のすべてのジェンダーが、雌性から女性のジェンダーが必然的に導き出される」と述べたわけではない(だからといって私はフェミニストのように「ジェンダーの多くを合一化すべき」と考えているわけでもない)。

例えば、男女の髪の長さについて考えてみる。我々の文化圏では、相対的に女性は男性よりも髪を長く伸ばしていることが多く、男性は女性よりも髪が短い場合が多い。したがって(それはけして個人に対する強い拘束力や強制力を持ってはいないものの)ここに、男女の異なりの一つとしての「髪の長短」が存在していることが観察できる。

しかし、この「髪の長短」は、(あるいは男女の生得性と何かしらの緩い連帯が見い出せるという可能性はあるかもしれないが、原則として)男女の生得的なものが結果する直接的な必然性に基づいて決定されているわけではない。

したがってやや口汚く表現すれば、この「髪の長短」において、本来存在しないはずの「男女の異なり」が捏造されているということに気付く。いわば生得的な男女の相違は、それとの直接的な繋がりのないジェンダー的慣習によって大幅に「水増し」されているのである。

こうして我々は、(生得的な直接的必然性がないにも関わらず)髪の長い人の後ろ姿だけで「あれはおそらく女性だな」とか、丸刈りの頭を後ろから見ただけで「あれはおそらく男性だな」とか予測することになる。

したがって我々は、生得的な(あるいは第二次性徴の身体の変化のように、ある時期から芽生える)雄性や雌性と親和的な要素、必然的に形成される要素の他にも、多くの男女の異なりを持つことになる。

しかし男女は同じ人間であることから、膨大な同一の特徴を持っている。これは男女において、男女がともに人間であることから共有されている性質であるといえる。

また雄性や雌性は冷静に考察すれば男女の核として存在していると確認できるものの、既に形成されている男性性や女性性の内部に隠れてしまうために、通常は非常に見えづらい(不可視的)。

しかし我々は男性性や女性性の全体は見ることができる(可視的)。つまり、部分としての雄性と雌性は不可視なのだが、全体であるところの男性性と女性性は可視的である(下図において男女の性質の内訳は、「人間として共有される性質」「雄性・雌性」そしてジェンダーによって肉付けを与えられた部分と三分割されているが、それぞれが占める部分の大きさは適当に、いい加減に設定している。そもそも正確に測定することなどできないものだからである)。

したがって男女それぞれのジェンダーは、男女の男性性・女性性を形成することで、本来は観察しづらい雄性や雌性を観察しやすくしている、とも解せる。

この時、ジェンダーは雌性や雄性と親和的なものや、無関係なものを雌性と雄性に肉付けすることで、男性性や女性性を形作るが、これは同時に「男女の異なり」となる。

こうしてジェンダーは、本来あるもの(雌性と雄性)を利用して、あるいはそれとは無関係に、本来ある以上の「男女の異なり」を量産することになる。既に考察したように、この「男女の異なり」は男性一般や女性一般の価値の拠点となる。

ここでは、伝統的な男女観念の中では、「異なり」に基づいて男女両性がそれぞれ価値づけられているということ、そして保守派のフェミニズムに対する抵...

男女の価値化

ところで、男女の異なりを基礎として男の価値化、女の価値化が為される時、一人の男の個人的価値や一人の女の個人的価値ではなく、男性一般や女性一般が価値づけられるということである。

そして男性一般や女性一般のが価値づけられるということは、「男が持たないものを持つ者としての女」が、「女が持たないものを持つ者としての男」が、それぞれ価値づけられることであり、それは何よりもまず、男にとっての女の価値、そして女にとっての男の価値を規定する。

極論するなら、ある男は、彼が男であるという理由によって、どのような女であれ一定の価値を持つということ、ある女は、彼女が女であるという理由によって、どのような男であれ一定の価値を持つということを意味している。

男女平等とフェミニズム

フェミニズムは原則として男女平等の理念に立脚している。

伝統的な男女観念には、男女の縦の関係としての「上位性ー下位性」や「支配性ー従属性」や「強者性ー弱者性」と、男女の横の関係性、等価値性(あるいは比較不可能性)とがともにあるが、しかし男女平等は前者の縦の関係性にだけ、とりわけ「上位性ー下位性」に注目した言葉である。

つまり男女平等それ自体に、伝統的な男女の観念を平板に解釈した面があるが、多くの場合、近代国家はこの原則を公共的に正しいと認めている。

フェミニズムは縦の関係性にだけ注目することで横の関係性を見落とすが、しかしこの「見落とし」は、男女平等それ自体が男女の縦の関係性にのみ注目しているという特徴と歩調を合わせており、つまり男女平等という大枠の大義と親和的である限りにおいて、フェミニズムはイデオロギー的大義の最終的な根拠を失うということがない。したがって男女平等の原則がある限り、フェミニズムの大義もまた不滅である。

このことは、保守派がフェミニズムを批判する際に、「行き過ぎた平等教育」や「行き過ぎた男女平等」など、「行き過ぎ」という言葉を多用することにも表れている。「行き過ぎ」とは、その方向性への進捗の過剰を戒める言葉であり、裏返せば「方向性そのものは正しい」という含みを持っているからである。

ジェンダーの合一化と融解

男女平等はフェミニズムの大義を下支えしているが、原則としてフェミニズムは「ジェンダーの非対称性」を批判することで男女の異なりを減少させようとしている。

このフェミニズムが好んで使う「ジェンダー非対称」という言葉だが、ほとんど何も意味していない。何故なら、「非対称」であり、同一でないからこそジェンダーだからである。

つまり「ジェンダー非対称」という言葉が完全な空語であるのは、もし対称的であれば、それは男女に同じように課せられることになり、したがって男女を対象とした拘束性ではなく、人間一般を拘束する道徳律に過ぎず、「(人間一般を対象とする)倫理」のようなものと同一になるからである。したがって「対称的」になった時点でジェンダーではないのである。

このような外観上だけ意味ありげな概念を弄んでいる時点で、フェミニズムが如何に空疎なイデオロギーであるかが分かるが、しかし我々が男女平等を奉じている限り、半永久的にフェミニズムは最終的な大義・根拠を失うことはない。

このようなフェミニズムのジェンダーへの攻撃は、我が国のフェミニストが好んで用いた「ジェンダーフリー」という言葉からも分かるように、原則として男女のジェンダーを合一化することを目指している。このジェンダーの合一化は実質的には、(完全にではないものの)ほとんどジェンダーの消失という意味に等しい。

一方で我々の社会は、男女平等の原則それ自体によって、そして男女平等に最終的な根拠を持っているフェミニズム・イデオロギーが漸進的に社会に浸透することによって、徐々にジェンダーを融解させていく。つまり自然的にジェンダーは希薄化していく。

そして前者のフェミニズムによるあからさまなジェンダーの破壊を「ジェンダーの合一化」と呼び、後者の自然的なジェンダーの自壊(希薄化)を「ジェンダーの融解」と呼ぶことができるが、そのいずれの場合にしろ、ジェンダーは徐々に失われていく定めを負っている。

本能への委託

このようなジェンダーの喪失が何を意味するかといえば、ジェンダーによって形成されていた男の男性性や女の女性性が形成されにくくなり、それによって男女の異なりが減少し、男は女を、女は男を価値づける拠点(根拠)も減少する。

これは最終的に(あるいは既に)我々が、男女が結婚や恋愛等で何かしらの結びつきを持つことについて、完全に男女の本能のみを当てにし、それに手を委ねている、ということである。

というのも、文化的・社会的な感化力としてのジェンダーが失われてしまえば、男女は観念によっては価値づけられなくなり、後は自然に、つまり本能的に男女が結びつく以外に、男女の結合の機会を作り出すことがなくなるからである。この時、我々は男女の結合の可能性を、完全に本能に委託するのだといえる。

我々はこのかつて試みたことのない冒険として、「本能への委託」をほとんど無自覚に行なう。というのも、ジェンダーが失われていくことが、最終的に男女の結合を、人間の柔らかい、脆弱な本能に委ねることを意味しているのだ、ということに誰も気づいていないからである。

もちろん、男女の雄性と雌性のうちには、男女を本能的に結びつけるような性質もある。しかし男女のこの性質は、人間特有の自由性のために、例えばしばしば多様な形の倒錯を示す性衝動がそうであるように、(動物の本能ほどには)堅固で安定したものではない。

異性を性愛の対象と見なさないような完全な同性愛者に限らず、一応異性愛者としてカテゴライズされるような男女であっても、異性との結合を望んだり結果したりするほどの積極性を持つという保証はない。つまり男として生まれた者が女を愛するとは限らず、女として生まれた者が男を愛するとは限らない。

ところで、我が国でもフェミニズムの勢力はいつも社会に浸透する機会をうかがっているが、相変わらず強力なものになりえていない。それは我が国においては一部の女性の寡占的イデオロギーに過ぎない。

しかし、それでもジェンダーは希薄化され、つまり自然に融解しつつある。今はまだ牧歌的な響きを持っているが、「草食系男子・肉食系女子」という言葉も、その本能に委託された男女の絆が少しずつ綻(ほころ)びを見せ始めていることを意味する。そしてこれは日本に限らず、世界的な現象である。

ジェンダーフリー

(フェミニストの山口智美らが取材して書いた『社会運動の戸惑い』によれば、「ジェンダーフリー」という概念を積極的に押したのは日本のフェミニズム特有の現象であるらしいが)日本のフェミニストが提唱したジェンダーフリーというものがなぜ危険な思想なのか、簡明に説明するならば次のようなことが言える。

伝統的な男女のジェンダーは、必然的に発生するような男女の異なりだけでなく、それ以上のものを作りだすことによって、いわば男女の異質性を誇張している。それは、例えば「5」しかないものに肉付けや水増しをすることで「30」にする(言うまでもなく、今提示した数値自体は適当に設定している)。その時、確かに我々は本来少ししか存在しないものが、本来ある以上に豊富であるかのように錯覚するが、これはいわば「誇張による錯覚」であるといえる。

しかし、我々は排便や排尿ですら、本来そのような習慣を持たないのに学び取ることで習得するのであり、ここにも本来存在しないものの増加や会得という現象は確認できる。したがって、我々が本来持つもの(雌性・雄性)に肉付けを行って増加させているからといって、それを端的に欺瞞だとか不正だとか言うことはできない。

そして繰り返すが、ここにある欺瞞あるいは虚偽は、「誇張」という虚偽である。一方でジェンダーフリーが、例えば教育に適用された時に行われる虚偽とは、存在するものを存在しないと教える虚偽なのである。そのような(男女平等と適合的という意味での)理想主義的欺瞞は、短期的にであれ、あるいは長期的にであれ、何かしら恐ろしい結果を引き起こすのではないかと私には思える。

スウェーデン

この情報ソースはネットの下記の記事だけなので、正確なことは分からないものの、スウェーデンでは「自分は性同一性障害者だ」という申告が増加しているという。

 スウェーデンでは、心と体が一致せず、間違った体に閉じ込められているという不安を感じている子どもたちの数は増え続けており、毎年2倍にもなるという。まだ幼い6歳児までもが違う性になりたいと望んでいると医師たちは言っている。

スウェーデンの性同一性障害者の申告増加の原因として、スウェーデンという国がトランスジェンダーを公的に認めているということが、その一つとして考えられる。

繰り返すが、データが先に挙げた上記記事だけなので、ここから先の考察は「他国における性同一性障害者の比率よりも、スウェーデンにおいては性同一性障害者の比率が多い」と仮定して、話半分に読んでほしい。

言うまでもないことだがスウェーデンは「フェミニズム大国」「男女平等大国」として有名である。スウェーデンは「男らしさ」と「女らしさ」を公教育で否定するような、ジェンダー分離について否定的政策をしており、また子育てや仕事は男女がともにするというように性役割がほぼ合一的である。

注意すべきは、仮説上ジェンダーがほぼ完全に合一化された場合には、性同一性障害者数の推移は、(1)人々の間で性同一に関する迷いがほとんど起きない、つまり一切の性同一性障害が発生しないという事態が考えられる。何故なら、(妊娠・出産・授乳を除くならば)どちらを選択しようとする事や生き方にほとんど変わりがないからである。

ところが、もし実際にスウェーデンの人口に比して、あまりに多くの性同一性障害の申告があるというのなら、そしてそれが単純にトランスジェンダーへのスウェーデンの政策的寛容さによるのでないと仮定するならば、(2)の「ジェンダーが分離されている文化に比して、多くの人が性同一に関して迷いを感ずる」という真逆の事態が起こっているということになる。

つまり逆に(2)「全ての人が潜在的に性同一性について違和を覚える可能性がある」というシナリオを想定することが正しいことになるが、だとすれば次のようなことが言える。

通常、男女のジェンダーが分離している場合、人は自分の性同一の違和感をジェンダーとの一致・不一致で判断していると推測できる。つまり下の図でいえば、赤丸で囲われた者が自分の性同一に違和を感じることになる。

しかしスウェーデンのようにジェンダーが合一的に近い文化の場合、自己がどちらのジェンダーに属するか、という判断は極端に微妙で曖昧になる(下図)。

つまり、ほとんど差異のないジェンダーから、自分の身体が属している側の性が、本当に自分にとって正しい性なのかを考えなければならない。

あるいは、子供を生めるか生めないか、乳房があるかないか(授乳できるか否か)のような、絶対に否認できないような、ごく少数の男女の身体的性差をもとに、自分がどちらの性に属するのかを考えなければならない。

しかしこのような生理的性差は、男でも時には「子供にオッパイをあげてみたい」と考えることはありえるし、また女でも「子供を生むなど真っ平」と思うこともあるなど、決定的に自己の内面と照応して、性の自己同一性を規定できるものとは言えない。

つまり子供の何かしらの思い込みや、(特別な必然性のないものと考えた場合における)成人のある種の願望といった偶発的なものが、その当人によって「自己にとっての本質的要素」と取り違えられて、実際にはそうでないのに、自分が性同一性の問題を抱えているという錯覚を生み出す可能性がある。

ゆえに男女のジェンダーが曖昧な環境では、多くの子供や大人が自分の性同一性について道に迷ってしまうというのは、当然のことなのかもしれない。

自己実現としての男と女

例えば性同一性障害者は、なぜ手術の苦痛に耐え、時には社会の偏見や白眼視に耐えてでも肉体と逆の性として生きようとするのだろうか。それは心が男である彼や心が女である彼女にとって、「男として生きること」「女として生きること」は一種の自己実現だからである。

そしてこのことは自分が健常者であるからといって、他人事として軽々しく流すべきではない。というのも、それは肉体と心とが一致している健常者たちにとっても当てはまるからである。

フェミニストは「男らしさや女らしさではなく自分らしさ」という如何にもな美辞を好むが、しかし、ある男が本来男らしいなら、ある女が本来女らしいなら、その男や女にとって「男らしくあること」や「女らしくあること」、あるいは「男として生きること」や「女として生きること」は、紛れもなく自己実現であり、個性の発揚なのである。

私が男であるなら、私が「男として生きたい」と願うことは、必ずしもジェンダー規範に縛られて自分らしさを見失っているということを意味しない。私が男であるなら、男としての私は「男のジェンダー」という形で私の外部にだけ存在しているのではなく、私の内部にも確かに存在している。この時、私の内部で「男であること」と「私であること」は矛盾せずに同じ地点に在るのであって、言うなれば私の個性は「男」という形態で存在しているのである。

私は雄性と雌性にジェンダーによって肉付けが施されて男性性や女性性が完成する、と述べたが、それは男女にもともと固有の性質(雄性と雌性)がある以上、あたかも男女という白紙のキャンバスに社会や文化が勝手気ままに絵を描き込むのではない、ということである。この時、雌性や雄性は男女それぞれのジェンダーという海を泳ぐことで、いわばスポンジが水を含むように自然に、自己との親和性に基づいて自己を実現しているのである。