『男と女を考える』フェミニズムの深い無思慮

ここでは、フェミニズムの誤謬について考察する。フェミニズムは、男女に関する考察を最初期に始めたために、男女について深い知識や理論を持っているかのような外観を呈している。

しかしフェミニズムは「女の地位向上」という意図に沿い、それによって思索が予定された軌道上でしか動くことないために、ごく初歩的な推論で仮定できるような真理ですら取り逃がしている。

フェミニズムの深い無思慮

ボーヴォワールの『第二の性』

そもそも、フェミニストは「女性」をどのように規定しているのか。

フェミニズムの女性規定のうち、その最も有名なものはボーヴォワールの『第二の性』冒頭における言葉だろう。それは「人は女に生まれない。女になるのだ」という規定である。

これは厳密な規定というよりかは修辞的な表現ではあるが、もしこれに忠実に従うならば、女という固有性は全く存在せず、それは社会的に付与されたものに過ぎない、ということになる。したがって、社会が従来「女」と呼んできた者たちに従来的な固有性を与えることを止めたなら、その時、女は存在しなくなるはずである。

この規定通りならば、フェミニズムは「貧者の貧困撲滅運動」の如き様相を呈するだろう。貧者が貧困を撲滅した時、もはや貧者は貧者ではない。しかし貧困撲滅運動を行なった貧者は、貧者でなくなった自分に満足しているだろう。

だがフェミニズムが完全な勝利を収め、社会が従来「女」と呼んできた者に従来的な固有性を与えることを止めた暁(あかつき)には、「女」という者は存在しなくなり、そのことにフェミニストは満足しているのだろうか。もちろん、そのようなことはないだろう。少なくとも、フェミニストがそのように考えているような気配は全く見られない。

それならば、フェミニストは「女」を、いったいどのような存在者だと仮定しているのだろうか。

フェミニズムの「女性」規定

保守派と同様に、フェミニストは「女は」と「男は」と、別々のものであるかのように言及している。ということは、「女」とは「男ではないもの」であるはずである。

したがって、男との相違が見出された時に、そこに女の固有性が見出されるのであり、つまり男との相違の発見と女の固有性の発見とは同時的である。このような「相違」は、通常「性差」という言葉で表現されている。

しかしフェミニストは女について、ほとんどの場合、「女は~ではない」という形でしか規定することがない。その「~」には、伝統的、あるいは現状において、社会が女性に与えられてきたとフェミニストが考える性質が入ることになる。

つまりフェミニストは通常、「歴史的に差別されてきた」とか「社会にこれこれの扱いを受ける」というフェミニストが考えるような女の歴史的・社会的位置付けにしか言及せず、一方で肉体的相違とそこから派生する相違(例えば性的被害者性)を除けば、あらゆる女独自の先天的固有性を否定するのが常である。

そして結局のところ、常に「~でない」という形でしか女を規定しない以上、フェミニストは女にあらゆる心的な固有性、内的な固有性を拒否していることになる。そのため、フェミニストの多くは「女」を、先天的には男との身体的な違い以外に何らの固有性も持たないと考えていることになる。

架空の同質性の捏造

既に述べたように、男との相違が発見された時に、同時に女の固有性が発見されるのであるが、フェミニストは女の先天的な固有性を無規定のままにしておき、その上で、現に見えている女特有の性質は無理矢理「社会によって与えられた」と仮定する。ボーヴォワールの「女は女として生まれず、女になるのだ」という命題も、それを表現している。

そのことによってフェミニストは男と女と架空の同質性を捏造するのである。

何故そのようなことが起こるかといえば、フェミニストが望むような「何者にもなりうる状態(=自由)」を手に入れるためには、まずその前に「何者でもない性質」であることが望ましいからである。

別の言い方をするならば、フェミニストは自分たちの考えるような「男女平等」を目指す上で男女が同質である方が都合が良いからであり、つまり理想に合わせる形で現実を恣意的に、手前勝手に想像しているのである。

フェミニズムの知的不毛さ

最初に述べた通り、フェミニズムは懐疑(否定)を恣意的にもてあそび、諸々の信頼に値しない言説を生み出しているのだが、ここでは例として一つだけ代表的言説を挙げて、それを集中的に論ずることを通じて、フェミニズムの盲目性を指摘しておきたい。

それは「女には母性など存在しない」という言説である。

フェミニズムのあらゆる言説に共通する根本的な欠陥として、それが近視眼的であり、視野を局所的に限定することによって、あたかもそれが正しいかのように言い述べるという特徴を挙げることができるが、これはその典型的なものである。

人間の高度な自由性

この女性の母性問題を考えるにあたって先に把握しておくべきことは、人間が高度な自由性を持っている、という事実である。ある意味では、フェミニズムの言説の全体が、このような人間の自由性の過大評価の上に組み立てられていると言えるほどである。というのも、その方が彼女たちにとっては都合が良いからである。

そして、この人間の高度な自由性は、通常その一面だけを「知性」という名で表現されることが多いが、人間のこの性質(=自由性)は、より厳密には「文化」と対応している。

どのような場所で生まれようと、人間が人間である限り人間が住むその土地には何かしらの文化が存在している。日本には日本の、アメリカにはアメリカの、ドイツにはドイツの、イヌイットにはイヌイットの、そして人食い人種にすら人食い人種の文化がある。

また今挙げられたそれぞれの中にも、更に細分化されうる一定の文化が存在している。地域社会や、それどころか一つの家庭ですら、そこで独自の文化を保有する、とすら言えるほどである。そして、その土地土地に生まれた子供は、それを学び、吸収することで一定の習慣や行動パターンを身に付けることになる。

重要な点は、人間集団は必ず一定の文化を保有し、かつ人間が常に文化による感化力を通じて行動パターンを形成するために、人間の行動原型が如何なるものなのか、ほとんど観察することができない、ということである(あるいは、そのような原型を見出し得ないような異常な学習性こそが、人間の固有性である、とすら言えるほどである)。

というのも、成人した者は文化の影響を受けて一定の形に仕上がっているからであり、一方で一定の形に仕上がる前の赤ん坊や幼児には、それらを可能にした性質(=高度な学習性)を除けば、野生動物のように確固とした本能に基づく行動パターンを見出しにくいからである。

哺乳類としての人間

フェミニズムの「母性は幻想である」という言説は、このような人間の性質を利用して人々を詭弁的に説得してくる。例えば、「女性は母性をもって生まれるのではなく、例えそのように見える場合であれ、それは習い覚えられたものに過ぎない」という風にである。

そして既に述べたように、常に文化に影響されて行動パターンを習い覚えられ、人間の原型はきわめて見えにくい、という事情によって、この言説はそれを信じたい人や、(それが良いか悪いかはさておき)女性一般の固有性やその母性に関して不安定な信念しか持っていない人に対しては一定の説得力を持つことになる。

しかしこの言説を否定することはそれほど難しくはない。というのも(生後の甚大な学習を可能にする高度な自由性という特徴があるものの)、人間も他の哺乳類と同じ生き物に過ぎないからである。

例えば、我々は犬や猫の雌が生まれたばかりの子犬や子猫に乳をあげて世話をしているのを見ても、何ら奇跡が起こったかのようには信じず、それを当たり前のこととして受け止めるのに、なぜ人間の雌にそれが起こった場合には、単なる偶発事のように信じなければならないのだろうか。

確かに人間の高度な自由性は、ある本能のようなものを毀損しようと思えば可能な構造になっている。例えば、生きるために当たり前の行動である睡眠や摂食を難しくしてしまう不眠障害や拒食症などがその例である。

しかしそのような例を見たところで、「睡眠をとることや食事を食べることは人間の本能ではなく、必然性のない偶発的行動に過ぎない」などという結論を導き出せるだろうか。もちろん、そのようなことはないだろう。

そして同じことを別の角度から考えるなら、人間の雌(=女)の外観的特徴から簡単に反駁することができる。というのも、人間の雌には明らかに授乳するための器官としての「乳房」が備わっているからである。生物的に、身体的な特徴として授乳する(生まれた子供を世話する)器官が備わっているのに、それに対応するような心的な固有性がないなどと推察するのは、明らかに無理がある。

例えば、口は「食欲」という心的な欲求と対応しており、眼は「視覚」という心的な領域と対応している。それなのに「乳房」だけは特権的に、女の身体に全く無意味な付属品として取り付けられており、それを持つ人間の雌がそれに対応する心的な特徴を持たない、などと何故断定できるのだろうか。

それとも、「それは人間の雄(=男)を誘うための器官であって、育児的な意味などない」とフェミニストは考えているのだろうか。もちろんフェミニストはそのような(より一層彼女たちにとって屈辱的であるだろうような)考えなど抱いていないだろう。「そのようには考えていない」どころか、「そのようなことは考えたことがない」のがフェミニストだからである。

ゆえに、人間の雌が生育環境次第で「母性的」と呼びうるような行動を取ろうと、取るまいと、人間の雌が「母性」という名で(多少そのような括りが乱暴であろうとも)総括できるような何かしらの心的な固有性を持っていることは明らかだろう。

だからといって私は、「人間の雌(=女)はそれを習い覚えなくとも、他の哺乳類と同様、本能的に授乳等、子供の世話をするような一定の行動を取るのと同じほどの強力な『母性』本能を持っている」などと主張しているわけではない。何故なら、人間が持っている高度な自由性を考えるならば、人間の雌(=女)がそのような行動を取らないよう成長する(形成される)ことは当然有り得るからである。

私の主張は単に、「人間の雌(=女)は、(特に乳房という外観で容易に推察できるように)生後間もない赤ん坊の世話を中心として、人間の雄(=男)以上に、何かしら子供の成育を気遣うような性質を会得し易い一定の固有性を持っていると推察できる」と述べているに過ぎない。そしてそのような性質をやや乱雑に、従来「母性」という名でくくって我々は呼んできたのだろう、というだけのことである。

最初に述べた「問題を局所的に限定している」というのは、フェミニストがこの「母性」の問題を、他の哺乳類を無視して人間の雌にのみ焦点を絞ることで、「母性」なるものが人間の雌には与えられていない心的な特徴だという言説を捏造的に構築しているからである。

そしてこのような言説から明らかなように、フェミニストは自己にとって不都合と思えるような女性の固有性は全て強引に否定してしまうという致命的偏向がある。人間の雌(=女)にそのような(母性的)特徴を仮定した場合、フェミニストたちが望むような「従来的な女性の役割からの離脱あるいは軽減」という目標が達成しにくくなるために、それを牽強付会に否定しているのである。

しかしこのように牽強付会に否定する時、フェミニストは、「多くの男がそれを見て喜ぶ(=自己にとって不快かつ不都合だ)から乳房を切り落としてしまおう」という発想にも似た、奇怪な、自らの固有性を毀損するような強引な精神的外科手術を強行しているのである。

フェミニズムの男女双方に関する無思慮

フェミニストが「女を代表して活動する(と自称される)」というフェミニズム運動の性質上、もっとも重要立脚点であるところの女について全く無思慮だということは以上でおおむね説明することができただろうと思う。

そして人間の雌(=女)についてこれほど無思慮であるからには、もう一方の人間の雄(=男)について無思慮であるのは、もはや証明するまでもないだろう。いったい、己自身(=女)についてすら深く考えない者たちが、他者たち(=男)について深く考えているなどと期待することができるだろうか。

もちろん、そのようなことは期待すべくもないだろう。