リュクルゴス【スパルタの伝説的立法者】

古代ギリシャの二大ポリスといえばアテナイとスパルタだが、リュクルゴスはそのスパルタの伝説的立法者である。スパルタの長い繁栄は、リュクルゴスが作り、代々のスパルタ人たちが守り続けた法によって生まれたといっていい。

それではそのリュクルゴスとは、どのような人だったのか。

【スパルタの伝説的立法者】リュクルゴス

リュクルゴスの祖先

プルタルコスの『英雄伝』にはリュクルゴスの列伝があるが、既にプルタルコスの時代(紀元50~120年頃)には、リュクルゴスの時代から500年以上が経過しており、その人物像については謎に包まれていた。

プルタルコスは「(リュクルゴスについて)議論の余地のないことはひとつもない」と述べている。しかし多くの証言のうちで矛盾の少ないものや、著名な証言者に従うならば、彼が王家の人であることは確からしい。

リュクルゴスの祖先にはソオスがおり、この人の時にスパルタは「ヘロット」と呼ばれる奴隷を得た。これはラケダイモン(スパルタ)人に征服された先住ギリシャ人であり、スパルタの人口比の多くがヘロットであったことから、後には反乱の危険から頭痛の種にもなったものである。しかしソオスは周辺の民族との戦いに勝ち、また強い自制心から尊敬もされていた。

ソオスの子のエウリュポンは王制の独裁的な点を緩和して喜ばれたが、徐々に民衆は王を侮るようにもなり、あるいは後の王が圧政を加えたり、弱体になったりと、スパルタは混乱が続いた。

王位の継承と譲位

王であったリュクルゴスの父エウノモスが死んだのは、そのような混乱が原因であったとされる。父王は喧嘩の仲裁に入り、肉斬り包丁で刺されて死んだのだった。

王位は息子でリュクルゴスの兄であったポリュデクテスに受け継がれたが、この人も死んでしまうと、王位はリュクルゴスに受け継がれた。

しかしリュクルゴスはポリュデクテスの妻が妊娠していることを知ると、生まれた子が男の子ならば自分は王位を放棄し、その子の後見人となると宣言した。

ところが、ポリュデクテスの妻であった未亡人はリュクルゴスの妻になりたく思い、その子を流産させようかと彼に相談を持ちかけた。リュクルゴスは内心苦々しく思ったが賛同するふりをして、体に障るので無理なことはせず、生まれた子は自分が処分するので引き渡してほしいと伝えた。

生まれた子は男子だった。その報告を受けた時、リュクルゴスは食事中だったが赤ん坊を受け取ると、同席した人々に「スパルタ人よ、あなたたちに王が生まれた」と言い、赤ん坊に「人民の喜び」という意味のカリラオスと名付けた。

結局、リュクルゴスが王位にあったのは8か月だけであった。

出国

彼はその徳性のためにスパルタで大変な人望をもった。

しかし、これで恥をかかされたと思った王母でポリュデクテス(リュクルゴスの兄)の未亡人とその親族は、しきりに彼を中傷し始めた。彼女の兄弟レオニダスはリュクルゴスは王位に野心があるといい、王の身に何かあればリュクルゴスの仕業であると述べた。

リュクルゴスは心を痛め、疑いを避けるために祖国スパルタを去った。それは疑いを避けるためでもあったが、同時に見聞を広めるための旅行でもあった。

彼はまずクレタ島に行き、そこで多くの感心すべき国制を認めた。しかしまたその一部は唾棄すべきものにも思えた。こうして彼は故国に持ち帰るべきものと、そうでないものとを選り分けた。

次には船でアシア(小アジア西岸の地方)へ赴いたが、それはその地の浪費や贅沢を、クレタ風の倹約で厳格な生活を比較するためであった。その地で彼はホメロスの詩に接し、自国に持って帰ろうと一心不乱に書き写した。既にホメロスの叙事詩はギリシャの一部で知られていたものの、このようにしてリュクルゴスはギリシャ人の間にホメロスを広めたのだった。

他にも、リュクルゴスはエジプトにも訪れているという説もある。

国制改革

スパルタの人たちはリュクルゴスの指導者としての天性と徳を慕い、使いを送ってしばしば帰国を促した。こうしてリュクルゴスは故国に戻った。

リュクルゴスは国制の変革を考えたが、まずその可否を、デルフォイの神託によって判断しようとした。すると神託はリュクルゴスを「神々に愛されし者」あるいは「人間よりもむしろ神」と呼んだ。神託ははっきりと国制改革を促していた。

意を強くしたリュクルゴスは、貴族を仲間に引き入れ、友人と謀議を行ない、こうして味方を少しずつ増やした。ある日、リュクルゴスは仲間の30人を武装させ、改革反対派を威嚇するために朝早く広場に来させた。

リュクルゴスによって王位につくことのできたカリラオス王はこれを怖れ、スパルタの守護神殿へと隠れてしまったが、説得されて改革派に加わった(プルタルコスはこれを、王は『天性温和だったから』と説明する)。

リュクルゴスの改革でもっとも重要なものは長老制であった。

28人の長老は、王と民衆の間にあり、僭主政にも民主政にも傾かないための平衡を保つ役割を果たした。そのために長老の権力は、政治に秩序と安寧をもたらしたのである。

この「28」という数字についてプルタルコスは、数学的な意味、例えばそれ自身の約数の和に等しいこと(1+2+4+7+14=28)などが関係あるのだろうと推測している。しかしとりわけ、長老の28人に王の2人(スパルタには王が二人いた)を加えると30人になるから、その数にしたのだろうと考えている。

またリュクルゴスは金貨・銀貨を無効とし、鉄の貨幣のみを使用可能にした。そのためにスパルタでは賄賂や詐欺といった不正が完全に消滅し、なおかつ外国で通用するような貨幣が稼げないことから、言論術を教えるソフィスト、旅の占い師、遊女、贅沢な装身具の職人が一切立ち寄らなくなった。一方で逆に実用的なものは尊ばれたので、寝台、腰掛、テーブル、杯を作る技術は非常に発達した。

さらにリュクルゴスは共同食事の制度をつくり、富裕者も貧困者も同時に同じ食事をとるようにした。これは当時寝椅子に寝そべって食事をする習慣があったことから、それによってだらしのない肉体や精神が作られないようにである。

これは特に富裕者には不評で、彼らは徒党を組んでリュクルゴスに迫った。その一人であるアルカンドロスは棒で打ってリュクルゴスの片目をつぶしてしまった。

しかしリュクルゴスが市民にその顔を見せると、人々は恥じてアルカンドロスを捕まえ、リュクルゴスに引き渡した。リュクルゴスはアルカンドロスを咎めず、召使いの代わりにその仕事を彼にやらせ、ともに生活した。アルカンドロスはリュクルゴスの生活を側で見ることで、その温和さ・厳格さ・不屈を知り、彼を認めるようになり、我が儘な若者から自制心に富んだ大人へと成長した。

リュクルゴスの法律

リュクルゴスは結婚や出生のための女子の教育にも気を用い、陣痛や出産に耐えられるように、若い女子は円盤投げ・格闘・槍投げ等で訓練させた。また女が一人の夫の子供だけではなく、夫が許したなら他の男の子を産むことも許した。

生まれた子は健康ならば育てたが、劣悪で不格好ならばアポテタイと呼ばれる深い穴に送り出してしまった。男の子は早いうちに戦うことや勇敢さを学び、髪の毛をそり、裸足で生活した。

祭の日は年齢に応じて三つの合唱隊に分けられた。例えば、老人たちの合唱隊が「われわれもかつては勇ましい若人だった」と歌うと、壮年たちは「われわれが今まさにそれである。あなたが望むなら試してみなさい」と歌い、少年たちは「われわれは今にはるかに強くなる」と歌った。

クリュプテイア(秘密勤務)といわれるものは、リュクルゴスが作ったとも、そうではないともいわれている。これは役人が賢明な若者を選び、彼らは短剣と必要な食糧をもって昼間は人目につかない場所に忍んだ。そして夜になるとヘロットを殺すのだった。

プルタルコスはこれを、(前464年の)大地震後に、メッセニア人とともにヘロットが攻撃をしかけてきて、それによって国家に大きな危機がもたらされてからのことではないかと推測している。

リュクルゴスの死

リュクルゴスはこうした諸々の制度が慣習と化し、人々の間でしっかり根付いたのを見届けると、すべての人を民会に集め、私はこれからデルフォイに出掛ける、そこで神の託宣によって善しとされたことを行うだろう、それまで法律を変えてはならない、と告げた。

人々が同意したために、リュクルゴスは出掛けた。彼はデルフォイで神に尋ねたが、「法律は立派で、国家もリュクルゴスの国制に従えば高い名声を保つ」と聞き、喜んでそれを手紙に書いて故国へ送った。

リュクルゴスはもう一度神に犠牲を捧げると、もはや故国を自分の法から解放しないために、命を絶つことに決めた。そしてリュクルゴスは絶食して死んだ。

諸説あるが、彼が死んだのはクレタであるといわれている。友人たちは彼の死骸を灰にして海にばらまいた。それはリュクルゴス自身が頼んだのだが、死骸が故国に戻り、法律が変えられないためにである。