古今亭志ん生(ここんていしんしょう/美濃部孝蔵)『いだてん』語り手

いよいよ始まった大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』ですが、この物語は、架空の落語である『オリムピック噺』の語りにのせて進行していくという形式です。

この『オリムピック噺』の語り手である5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)とはどんな人だったのでしょうか?

調べてみました。

5代目古今亭志ん生とは? その生涯

出生~勘当されるまで

5代目古今亭志ん生本名美濃部孝蔵は、

明治23年の6月5日に東京神田の亀住町というところで生まれました。

父は美濃部戍行(みのべもりゆき)、母は志う(しう)

昔の人は子だくさんですから、5番目の男子で

志ん生は末っ子だったそう。

また美濃部家はもともと高位の武士の家系でしたが

明治維新によって武士という階級はなくなり

父の戍行は、明治維新の支給金も商売の失敗で失ったために

孝蔵が生まれる頃には警視庁の巡査をしていました。

小学校に入学しましたが

卒業間際の11歳の時に

素行の悪さから退学になります。

そこから孝蔵は奉公に出されます。

しかし奉公先を転々として、

朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともありますが、

すぐに逃げ帰ってしまったそう。

1904年(明治37年)に一家は浅草に移り住みます。

当時の浅草は遊郭で有名な吉原のせいもあり、

治安も悪く、そうした環境のからか

孝蔵は飲酒・喫煙・博奕といった悪さを覚えます。

ある時、孝蔵は博打の借金のかたに

父秘蔵のキセルを持ち出して激怒されます。

父の戍行は槍を持ち出して凄み、

孝蔵を追い出してしまいました。

簡単にいえば勘当されてしまったということです。

母の志うはそれでも孝蔵を追いかけてきましたが

孝蔵はそれも振り切って出ていきます。

孝蔵が15歳の時のことです。

以降、親兄弟の死に目であれ家族には会わなかったとか。

落語との出会い~真打昇進

家を出て友人知人の家を転々とするうち

孝蔵は天狗連というアマチュア芸人集団の仲間に加わります。

天狗連とは端的にいえば、

「趣味が高じて自分でも芸がしたくなった素人の集まり」ですが

多くのプロを輩出しており、

後に「名人」と呼ばれるようになる

5代目古今亭志ん生もその一人です。

1907年(明治40年)頃、孝蔵は

三遊亭圓盛(さんゆうていえんせい)の下で

三遊亭盛朝を名乗ります。

しかし、まだ名乗りだけでプロではなかったそう。

またこの頃、左の二の腕に般若の刺青を入れたという

ちょっと信じがたいような話もあります。

1910年(明治43年)頃、

孝蔵は2代目三遊亭小圓朝に入門し

三遊亭朝太と名乗ります。

ここで正式に落語家になったことになります。

しかし志ん生自身はなぜか

当時「名人」と称された4代目橘家圓喬の弟子だった

と語っています。

師匠の小圓朝と反りが合わなかったのでしょうか。

実際、小圓朝は1923年(大正12年)に亡くなっていますが

亡くなる以前の1918年(大正7年)に

4代目古今亭志ん生の門下に移籍して

金原亭馬太郎に改名しています。

その3年後の1921年(大正10年)9月に

金原亭馬きんを名乗って真打に昇進しています。

結婚~満州慰問~帰国

志ん生は1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。

志ん生は結婚の世話人に

「飲む打つ買うはする」と伝えさせたために

どうせ嫁には来ないだろうとタカをくくっており、

そのため、実際にりんが嫁に来たことにビックリしたそう。

りんは志ん生が売れる前の貧乏生活によく耐え

売れてからも弟子の面倒見がよく

いい芸人の女房になりました。

志ん生は

当時の実力者だった5代目三升家小勝(みますやこかつ)に

楯突いて干され、講釈師に転向したり

また謝罪して落語家に戻っても飯が食えず

と、自身の偏屈さもあって

散々な苦労をし続けます。

また当時の噺家は

ファッションリーダーのような性格ももっており

派閥ごとにお洒落な揃いの着物を着ていました。

そんな中、志ん生はいつもボロボロの着物を着て

身なりに構わないことで異彩を放っていました。

しかし長い精進の末に

徐々に志ん生の噺のうまさは

評判を呼びようになり、認められました。

その時、既に志ん生は50歳近くになっていました。

ところが、折あしく戦争が始まります。

志ん生は他の芸人と一緒に満州に慰問に行きますが、

その最中に日本は戦争に敗けてしまいました。

その時、志ん生は大陸の大連という場所にいましたが

すっかり意気消沈し、そうすれば死ねると思い

1箱分のウォッカを飲み干して

何日か意識不明になりましたが

死ぬことはなく、目が覚めてしまいます。

そこで死ぬことは諦めたものの

結局日本に帰国できたのは

1947(昭和22)年1月のことでした。

落語の神様

帰国してからの志ん生は大きく取り上げられ

ラジオにも出演するようになり

経済状況が大きく改善されました。

1957年(昭和32年)には

落語協会4代目会長に就任。

我が世の春を謳歌します。

しかし1961年(昭和36年)に脳溢血で倒れ

3か月の昏睡状態の後に復帰しますが

それまでの破天荒な芸風は一変します。

この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」と分けられます

昭和43年(1968年)には紫綬褒章を受章。

1968年(昭和43年)の高座を最後に

舞台には上がらなくなります。

1971年(昭和46年)に妻のりんと

親友の8代目文楽を見送った後、

志ん生は1973年(昭和48年)9月21日

自宅で83歳の時、息を引き取りました。

5代目古今亭志ん生の逸話

貧乏生活

売れない時代にした貧乏生活は

志ん生が面白がってネタにしていました。

貧窮していた当時

家賃がいらないということで決めた家が

震災後の住居不足を補うために

池や田んぼを埋め立てたような土地のものでした。

虫やデカいナメクジがいくらでも湧くということで

「ナメクジ長屋」と名付けられました。

この時代のことは、

特に『なめくじ艦隊』という著書に詳しいようです。

志ん生一家は、

その「なめくじ長屋」以前には

笹塚に住んでいましたが、

リン夫人はその当時の話を聞かれた時

思い出しているうちに涙を流し始めたといいますから

相当な苦労をしたようです。

『なめくじ艦隊』より後に、聞き書きで書かれた

『びんぼう自慢』という本もあります。

繰り返した改名

志ん生は

16回か17回も改名しているというのは有名な話です。

借金取りから逃げるためという説もありますが

真偽は定かではありません。

「志ん生」の襲名もいわくつきで、

「志ん生」の名は襲名した人がすぐに亡くなるので

ゲンが悪いと周囲に反対されましたが

「自分が長生きして看板を大きくすればいい」と

とりあわずに襲名してしまったとか。

結果、襲名した1939年(昭和14年) から

1973年(昭和48年)に亡くなるまで

34年間、この「志ん生」の名で落ち着きました。

5代目古今亭志ん生の得意演目

志ん生は持ちネタの多さでもよく知られています。

特に得意な演目は「火焔太鼓(かえんだいこ)」や

「文七元結(ぶんしちもっとい)」だといわれています。

古今亭志ん生(五代目) 火焔太鼓*

ビートたけしが志ん生を語る著書

『いだてん』で志ん生を演じるたけしですが、

もともと志ん生が好きだったんですね。

こんな本を書いています。

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