木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』保田與重郎と小林秀雄の接点

ハイデッガー研究者の木田元(きだ・げん)は文春新書から『なにもかも小林秀雄に教わった』という本を出している。

私は小林秀雄が好きなので思わず買い求めて読んだ。

個人的にもっとも面白かったのは保田與重郎(保田与重郎、やすだ・よじゅうろう)について書いている部分であり、次いで面白かったのがドストエフスキーについて書いているところだ。

木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』

木田元の個人的な読書史

『なにもかも小林秀雄に教わった』は厳密には全編小林秀雄尽くしというわけではなく、木田元の個人史と絡めた読書史として捉えた方がよい。

というか、全14章の内、第5章から初めて小林秀雄が出てくるので、小林秀雄は好きだが、木田には全く興味がないという人は、そこまでは読みづらいのかもしれない。

しかし小林が出てくるまでの木田氏の個人史もそれはそれで面白い。

例えば終戦直後に木田は闇屋をしており、計60キロの闇米を抱えてぎゅうぎゅう詰めの列車に乗り込んだり、車両を占領している韓国人と仲良くなった、なんて話は面白い。

ドストエフスキー論

木田のドストエフスキー論についての記述で特に面白かったのは、哲学者でフランス文学者の森有正(1911-1976)の『ドストエフスキー覚書』に関するものだ。

また木田のこの言も興味深い。

(前略)森さんのこの『ドストエフスキー覚書』をふくめて、一般にドストエフスキー論は誰のものであれ傑作が多い。

それについて木田は、ドストエフスキー論は青年時代ドストエフスキーに耽溺した人が、青春の総決算のようなつもりで書き上げることが多いからではないか、と推測している。

木田は森有正の『ドストエフスキー覚書』の中で、特に『悪霊』に関するものと「コーリャ・クラソートキン――『カラマーゾフの兄弟』の中の一挿話」が琴線に触れたらしく、特に後者にフォーカスしている。

私もまたこの後者について書いているところに心を動かされた。

「コーリャ・クラソートキン」とは、カラマーゾフの三兄弟の末弟であるアリョーシャのまわりに集う少年たちのうちの一人で、ガキ大将のような存在である。

そしてこの少年に対抗するのが貧乏で痩せっぽっちな9歳の少年、イリューシャである。このイリューシャによって、コーリャは一種の「回心」を経験する。

私の言われて初めて気づいたのだが、『カラマーゾフの兄弟』は、実はこのイリューシャの葬儀の場面で幕を閉じるのである。(略)観念的な自我との関わりに囚われていた自己閉鎖を打ち破られ、他者との生きいきとした関わりに引き出されたのだ。なにによってか。森さんは「邂逅」によってだと言う。

この「邂逅」こそが、もっとも重要なキーワードである。孫引きになるが、『なにもかも小林秀雄に教わった』で木田が引用している森有正の文を引いておく。

途上で私が友人と出逢う。何故かと問う必要もなく、またそれは馬鹿げている。人生は道である。私どもにはそこでさまざまな仕方で出逢うことが起こる。この出逢うこと、「邂逅」こそ人生の真実である。この「邂逅」のなかに無限の、汲み尽せぬ、深淵が開かれるのである。

小林秀雄と保田與重郎(与重郎)の接点

『なにもかも小林秀雄に教わった』を読んだことの一番の収穫は、保田与重郎と小林秀雄の接点を初めて知ることができたということだ。

この二人の大物の活動期間は重なり合っているのに、木田の言うように「もっとたがいに論及し合い、批判し合っていてもよいはずなのに、不気味なくらいそれが少ない」。

しかし小林から安田への言及は絶無といってよいほどだが、保田から小林への言及は実際にはあったらしい。その文の一つを、木田は『なにもかも』の中で引いている。

しかし小林氏の高邁さと、その志の高さには、新時代を画する風があった。初期の文章には、江戸市民の方言的発想が多少あつたが、漸次、文章の格調が高まるにつれて、やがて私は、この人の態度の真にして、誠あるところを悟り、非常に教はるところがあり、またその点に深く敬服した。

木田はこれらの評を「儀礼的な感じがしないでもない」としているが、私には率直で正直な評であると思う。保田は自分が小林に感じたことをあるがままに書いているだけだろう。

保田と小林の距離感

また小林は保田の訃報を聞いて弔問に訪れた時、板の間にずっと正座して、どれほど勧められても畳の上に上がろうとしなかったという(木田が福田和也の文を引いている)。

こちらは『なにもかも小林秀雄に教わった』に出てくるエピソードではないが、保田は小林が『本居宣長』連載時に、感想を書き送って励まし続けたらしい。

つまり小林と安田の二人の関係は、保田からは一種のラブコールが送られたが、小林はそれに十分答えなかったという関係のように見える。

小林の愛読者なら誰しも記憶する言葉だと思うが、彼はしばしば文中で「私は恥ずかしかった」という表現を使うことがある。小林は非常に過敏な羞恥心を持った人間だった。

小林の弔問の時の様子は、保田の訃報を聞いて唐突に、生前の安田に対する自分の態度は「ひどく義理を欠くものだった」という痛切な意識が目覚めたためではないかと私は推測している。

木田のこの評もまず穏当なところだと思う。

小林秀雄は、保田について不気味なくらい沈黙を守っているが、それは、同調する気にはならないが、自分に見えないものを保田が見ているらしいということは認めていた、ということではなかったろうか。

保田も小林も共に強い個性を持った人間だが、小林は保田に比べて繊細で線の細い人間だ。おそらく小林は、異なる個性を持った保田にあまりに接近しすぎると、気持ちを乱されて自分の仕事に差し障りが出ることを感じて距離を置いたのではないだろうかと私は思う。

「戦後の終わり」と保田与重郎

私が高校時代に国語の資料としてもらった便覧には、小林秀雄は大きく扱われていたし、またかなりマイナーな詩人や評論家でも一人ひとり解説されているほど細密なものだが、保田の名前は仕方なしに触れているような箇所以外は載っていない。

よほど隅々まで読むか、もしくは末尾の索引によってやっと見つけられる程度の扱いに過ぎない。この扱いは明らかに不公平なものだし、作為的な印象さえ受ける。

しかも私の通った学校は、創立の経緯を考えれば右寄り教育をしているはずなのに、それなのである。

以前半ば遊びのようなつもりで、戦後というのはいつ終わるのか、と考えたことがある。

その時考えたのは、戦後が終わったことの証は、一つには朝日新聞社の倒産、もう一つは保田与重郎が再評価されて多くの人によって読まれるようになった時、戦後が終わったと言えるだろう、そう考えた。

前者については、朝日に限らず新聞一般の購買数が下がっているので俄(にわか)に正しい尺度とは断定できないが、後者については、あながち間違ってはいないと思う。

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