小林秀雄と三島由紀夫の対話 三島の対談集『源泉の感情』から

誰かに「小林秀雄はなぜ偉大なのか」と訊かれたなら私は何と答えるべきなのだろうか。もっとも当たり障りのない答えは、「それまで日本文学において批評対象に従属的なものだった批評を、一つの独立したジャンルとして確立したから」というものだろう。

この答えは確かに間違ってはいないし、それ故この回答に殊更反対すべき理由は見い出せない。しかしながら、このような当たり障りのない回答ではどうしても取りこぼさざる得ないものを小林は持っている。

私はそれに対する最終的な回答を与えようと思うのではない。しかし暫定的にであれ、一面的にであれ、彼が私、あるいは我々にとって何を意味するのか、という問いの答え、もしくはそれに近いものの提出をここで試みようと思う。

三島由紀夫の対談集『源泉の感情』

読書家なら誰でも、何回読んでも読むたびに面白い本というのがあるだろうと思う。私にとって三島由紀夫の対談集『源泉の感情』がその一つである。

そしてその中の多くの対談でも矢張り、まずは小林と三島との対談が目に留まる。

小林と三島の距離

私が何回か小林と三島の対談を読む中で気になったのは、小林が「分からない」とか「知らない」、特に「分からない」という言葉を使う回数の多さだ。

三島 小林さん、小説をお考えになる時には、どうお考えになります。フォームっていうものは、どうしても問題になる、そういう地点で小説をお考えになるか、それとも眼が見えなくてもいいんだっていう……。
小林 それが僕に解らないことなんだよ。きみなんか、どう思ってるかって、こっちから聞きたいと思っているくらいです。

小林の「分からない」という言葉と「知らない」という言葉を数えたなら、合わせて10回ほど使われている。小林は特段、知らないことを知っている振りをしたり、分からないことを分かる振りをするような虚栄に富んだ人物でもないことから、こうした言葉が出てくることそれ自体に不思議はないものの、それにしても多すぎるという印象を受ける。

私にはこれが、三島に対する小林の「指導することの拒絶」という態度に見える。

対談では有意義な対話も交わされるが、こうした小林と三島の距離、それも小林側が三島に対して置いた距離のようなものが、ほの見える。

小林の三島評「才能の魔」

これについてどう考えるべきだろうか。まず留意すべきなのは、小林はけして三島を低く見積もってはいない、ということだ。小林が三島に対して言った「才能の魔」という言葉を見れば、彼が確かに三島の才能を認めているということが分かる。

おそらく、小林は三島を認めつつも、自分の個性とは全く性質の異なるものをそこに見たのだろう。それが対談で、「小林が三島に対して置いた距離」のようなものとして現れているのだと思える。

批評家・小林秀雄は若い頃『マルクスの悟達』という評論を書いている。 ネット上で『マルクスの悟達』の感想を読んでみると、私には多くの人が...

社会と個人の宿命的対立

社会と個人は宿命的な対立を抱えている。

というのも、独創性を持った個人は、社会に新たな発展の可能性を持ち込んでそれを試みる、という点で社会にとって有意義な存在だ。しかし、その個人が社会に持ち込むものが「有意義な独創性」なのか、それとも「唾棄すべき堕落」なのか、俄かに判別がつかないからだ。社会の成員の多くに現れる「変化への嫌厭」、また歴史が示す改革者に対する残忍な処遇、こうしたものは後者の「社会の保守的防衛機制」を象徴している。

成否不明な冒険

確かに新しいものを試みるのは社会にとって危険な実験だ。それ抜きで永遠にやり繰りしようとすること、それもまた一つの無謀ではあるが、「成否不明な冒険」を恐れる社会に対して、一面的にそれを咎めることも出来ない。

その社会の怖れは「冒険」や「賭け」が常に持っている、「成功報酬は大きいが、失敗したとき失うものもまた大きい」というその性格に由来しているのだ。少なくとも、この「社会と個人の宿命的対立」は、個人の独創性に理解を示さない「社会という悪」と、独創性を持った「個人という善」の対立ではないことだけは確かだ。

生物と細胞の比喩

比喩的に語るならば、それはいわば生物の躯体全体と、個々の細胞が持つ関係に似ている。社会は個人という一個の細胞を、自分に奉仕するものと、もしくは老廃物や毒素に過ぎないものとに判別しなければならない。その判別の結果としての有害な細胞や不要な細胞の駆除や疎外は社会の「新陳代謝」の役割を持ち、そうした一種のメンテナンスなしに社会は自分を維持することができない。

ところが、しばしばこの「有害細胞の識別」に「独創性を持った個人」が検知されてしまうことがある。それは一般には「優れた才能の持ち主が必ず出会う周囲の無理解」という形で知られている。更に厄介なことには、そうした現象が「知られた」ところで、その「無理解」はけして無くすことが出来ないのだ。というのも、「独創性」はまさに我々の従来的な限界を突破するところに現れるのであり、したがって常に新しく我々の現時点での理解力に挑戦するからである。

我々はそうした「無理解」と遭遇する「独創性を持った個人」にもなりうるが、同時に「独創性を持った個人」に対して「無理解」を示す人にもなりうる。この「無理解」は一般に考えられているように「凡庸人の知力の限界」だけを意味するのではなく、有害なものの可能性を排除しようとする「社会の防衛機制」をも内包するものであり、それゆえ理論上、社会が存在する限り存在し続けると言える。

そうした「独創性を持った個人」への「有害細胞の判定」の可能性を知るがゆえに、そうした「個人」は社会を恐れる。何故なら、どんな屈強な個人であれ「社会」という巨大な生物躯体全体から見るならば、ノミやシラミに等しいからだ。

つまるところそうした「個人」の「自己の独創性を社会の中で貫徹しようとする試み」は、常に「社会に対して個人が行う無謀な戦い」として現れざるえない。

ハイデッガー研究者の木田元(きだ・げん)は文春新書から『なにもかも小林秀雄に教わった』という本を出している。 私は小林秀雄が好きなので...

小林秀雄

小林秀雄は、まさにこうした「自己の独創性を社会の中で貫徹しようとする試み」の挑戦者として、しかも、ただそれだけに留まらず「無謀な戦い」を行っているという「自覚」に基づいた「怖れ」を持った者として、私の目に映ずる。

小林が持っていた「独創性」の巨大さ、そしてその「無謀」の自覚、その二つが、小林をそれ以外の凡庸な人々と分ち、しかも小林以外の「独創性を持った個人」とも分かつ。

『源泉の感情』から

三島との対談の終盤、このような会話が交わされる。

小林 ほんとにきみは才能の魔だね。堕ちてもいいんだ。ひるんだらダメですよ。
三島 いつ堕ちるか解らない、馬に乗ってるようなもんだな。
小林 才能のために身を誤ったら、本望じゃないか。

この対談は三島の自裁の10年以上前に行われている。だから私は小林が何かしら三島がやろうとしていることを予感して「煽っている」とは言わない。第一、小林が三島に何を言おうと、言うまいと、三島のすることは変わらなかったろう。三島の「独創性」もまた小林のそれに劣らず強靭なものだからだ。

この言葉が示しているのは、対談において三島との強い「個性の相違」を感じて一定の「距離」を置いた小林が、それにも拘らず、三島を「自己の独創性を社会の中で貫徹しようとする試み」、そしてその「無謀な戦い」における「同志」として確かに認めた、というそのことである。

三島の自裁

小林はもちろん三島の自裁に際して「気が狂った」とは言わなかった。小林が事件を評した「孤独」という言葉、それは三島への細やかな手向けだ。