モンテーニュの『エセー』自殺についての章「ケオス島の習慣」を読む

以前、モンテーニュの『エセー』が白水社の新訳で出ているのを見て興味を持ち、買い求めて読んだ。

『エセー』自体がそれほど難解なものではないのでそれほど意外でもないのかもしれないが、白水社版・宮下志郎氏の翻訳はとても読みやすかった。

中でも私は白水社版で第三巻に収められている、自殺・自死をテーマに書いた章である「ケオス島の習慣」に感銘を受けた。

モンテーニュの『エセー』の「ケオス島の習慣」

ケオス島

「ケオス島」とは今では「ケア島」と呼ばれるギリシャ領のキクラデス諸島北西部の小さな島で、昔そこでは一種の安楽死のような習慣があったらしい。

「ケオス島の習慣」ではケオス島の身分の高い高齢の女性が自死する様を、カエサルとの三頭政治で有名なポンペイウスの息子が立ち会った状況を描写している。

しかしこの章の題名となっているケオス島の出来事については章の最後に少し触れられるだけで、モンテーニュは他にも無数の自死に関するエピソードを古典古代を中心に挙げている。

こうした書き方は『エセー』では常に採用されているお馴染みのものだ。

自殺についての章「ケオス島の習慣」

「ケオス島の習慣」を初めて読んだ時、私は言いようのない安らぎを感じた。

これは当時私が厭世的になっていたからだろう、と思っていたが、今回読み返してみて、今でもそうだということを確認した。

安らぎというよりむしろ爽快感に近いものなのかもしれない。

例えば次のような文だ。

おまえは、なぜ現世のことを嘆くのだ? おまえを引き止めてなんかいないのに。おまえが苦しみながら生きているなら、おまえの臆病さが原因なのだぞ。死ぬには、その意志さえあればいいのだから。

この言葉には死ぬことの自由を強調することで、逆説的に生きることへと心を鼓舞するような力強さを感じる。

次にセネカの死に関する文が引用されてから、このように続く。

死とは、ひとつの病気にだけ効く処方箋ではなく、あらゆる病気に効く処方にほかならない。それは非常に確実な港であって、けっして恐れるべきものではないのだし、ときには、探し求めるべき港ともなる。

ここまでのモンテーニュの調子を要約するならば、「死は万病に効く薬である」、「死は全ての病を癒す」ということになる。

しかしそう考えるなら、生自体が一個の病気に他ならないことになる。

そこまで言うと言い過ぎになるかもしれないが、しかしどれほど苦しい生も、死というゴールがあるということは、この上ない救いではなかろうか。

転調

だがこのようなモンテーニュの調子は、プラトンの甥の哲学者スペウシッポスの自死に言及した後で突然変化する。

このような転調も『エセー』ではよく見られる。一応、『エセー』の中にモンテーニュの「定見」のようなものを求めるのは無意味な徒労だと言っておきたい。

モンテーニュに定見があったとしても、それは彼の思想というより性格に基づく個人的な信念として表明されることが多いので、一般的で万人に適用されるべきものとしては表明されない場合がほとんどだ。

もっとも、それが『エセー』の面白さでもあり、読みやすさでもある。

しかしながら、こうした考え方にも異論がなくはない。次のように考える人も多い。「われわれは、われわれをこの世に置いてくださった方の正式な命令がなければ、この世への駐留(ガルニゾン)を放棄することはできない。……

このような見解は自死を禁じたキリスト教的だ。

本来モンテーニュはキリスト教徒なのだから、最初からこのような見解を採用すべきなのかもしれないが、モンテーニュはキリスト教よりもギリシャ・ローマに強い関心を持っているためにそうはならない。

「ミレトスの乙女たち」の連鎖的自殺

しばらく一転して生の弁護人に徹するモンテーニュだが、途中、小アジア(アナトリア半島、トルコ)の西岸にあったギリシアのポリス、ミレトスで起こった興味深い出来事が引かれている。

(前略)彼女たちが申し合わせたように狂気に駆られて、次々と首をつったために、役人が、そのような首つり自殺した娘が見つかったら、裸にして、綱にじゅずつなぎにし、町中をひきまわしにすることという命令を出して、ようやく連鎖を止めたという。

「乙女」とはおそらく未婚の女性のことを指しているのだろう、その年ごろの若い女性がとりたてて理由もないのに次々に自殺し、どんな手を尽くしても自殺の連鎖が止まないものだから役人の強引な指令で最終的に収拾したという話だ。

「自殺」も時には流行することがある、ということは、我が国でいえば、華厳の滝で飛び降り自殺をした藤村操の後追い自殺があるが、年ごろの女性に限定される自殺衝動の伝染というのは興味深い。

たぶん今よりも素朴な社会で暮らしていた女性というのは、情緒や感性に本人にも統御できないような異常な共感性があり、それがこのような現象を引き起こしたのだろう。

結び

こんな具合に無数の興味深い事例・エピソードを引いた後、「ケオス島の習慣」はモンテーニュの「わたしには、自死への誘惑のなかでも、苦痛と、悪しき死は、もっとも許せるものだと思われる」という言葉で締めくくられる。

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