日本文学者で日本文化の優れた理解者だったドナルド・キーン氏が96歳で亡くなった。
ドナルド・キーンといえば、永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、吉田健一、石川淳、司馬遼太郎など多くの日本文学者との交流でも知られている。
特に有名なのが生前の三島由紀夫との交流である。
ここでは三島とドナルド・キーンとの交流、そして三島の自死後にドナルド・キーンが読むことになった三島の書簡などについてまとめた。
ドナルド・キーンと三島由紀夫
ドナルド・キーンと三島由紀夫の交流は16年にも渡った。
2人が初めて出会ったのは1954年11月、キーンが京都大学院生に留学中の32歳、三島が29歳の時に編集者に引き合わされて出会ったという。
共通の趣味である歌舞伎を一緒に鑑賞し、意気投合した。
三島はベタベタした関係を望まず、そのためにプライベートに言及することは避けていた。三島に「気楽な言葉で話そう」と提案されたものの、書籍で日本語を覚えたキーンは砕けた表現が苦手で断ったという。
それでも話題は文学や世界情勢と多岐に及んだ。
豊饒の海
三島がニューヨークで近代能を上演しようとした時にはキーンも協力している。
遺作の『豊饒の海』に関係する資料も、キーンの紹介で手に入れている。
三島は半年ほどの滞在中にオペラやミュージカル、バレエ、演劇などに足しげく通った。私は時間があるときにはガイド役を買って出て、意外な場所にも案内した。アムステルダム大通りの百二十丁目にあったコロンビア大の書籍部だ。三島が「ラテン語で地名表記された月の地図が欲しい。どこかで買えないか」と言い出したので、そこに連れて行ったのだ。
その地図には「Mare Foecunditatis」と記載された海があった。日本語訳は「豊饒(ほうじょう)の海」。それは三島の遺作の題名でもある。七〇年に三島が自決する直前だった。私はその題名が気になり、手紙で意味を尋ねたことがある。返信には「月のカラカラな嘘(うそ)の海を暗示した」とあり「日本の文壇に絶望」とも書かれていた。
引用:ドナルド・キーンの東京下町日記
最後の晩餐と三島の自死
三島が自裁したのは1970年11月25日。
その年の8月、キーンと三島は伊豆の下田で話している。
私たちは下田に着くとすぐに寿司屋に入りました。すると彼は、トロだけを食べるのです。そして「他のものを食べる時間がないんだ」と言うんです。私は冗談だと思っていましたが、彼はトロだけを食べつづけていました。
やはり下田にいるときに、二人で海水着になってプールサイドで話したことがあります。三島さんは水に入ろうとしなかったのですが、私は何の理由もなく三島さんに「何か心配事があるのなら言ってください」と言ってしまったんです。彼は視線をそらして、何も言いませんでした。その後、普通の話題に戻ったんですが、私は、ふと何かしら感じるところがあって話しかけたその瞬間を忘れられません。話しかけてすぐ、自分は言ってはいけないことを言ったのだと思いましたが……。
きっと彼は、11月25日のことを考えていたのでしょう。
事件の当日はニューヨークにいました。夜の12時頃に読売(新聞)のワシントンにいる記者から電話がありました。彼は私が三島さんの友人だということを知らず、ただ親日的なアメリカ人として「三島さんが今日、切腹しましたが、ご感想は?」と訊いてきたんです。私は何も言えなかった。私はたまたまニューヨークにいた永井道雄さんのホテルに電話しました。当時、朝日新聞の論説委員だった永井さんはすぐに東京に問い合わせてくれて、「本当だ」と。
その後は朝の7時まで日本のマスコミからの電話が鳴りっ放し。一様に「自殺の気配は」と訊いてきて、私の返事も同じ返事。やがて自分の声が他人の声のように思えてきて、自分が一種の機械になったような気がして、何も感じられなくなりました。
2、3日後に三島さんの最後の手紙が届きました。奥さんが机の上にあるのを見つけて、押収される前に送ってくれたのです。
引用:週刊朝日
怒鳴門鬼韻と魅死魔幽鬼夫
2人は互いに多くの手紙をやり取りしていた。
三島はある時から手紙に「怒鳴門鬼韻(どなるどきいん)様」と当て字で書いてきた。そこで、私は仕返しに「魅死魔幽鬼夫(みしまゆきお)様」と書いた。三島は七〇年十一月二十五日に自決した。その直後、ニューヨークで翌十一月二十六日の消印が付いた三島からの航空便を受け取った。自決直前に書き、机の上に置いてあった封書を、夫人が投函(とうかん)してくれたのだ。
そこには「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正に正確でした」。もちろん冗談だったのだが、その命名の痛みは、いまだに癒えない。
引用:ドナルド・キーンの東京下町日記