加藤諦三の言葉『心の休ませ方』と『「自信が持てない人」の心理学』

自分の心や親との関係について深く悩んでいた時期、私は加藤諦三(かとうたいぞう)の著作を何冊も買い求め、貪るように読んだ。その中の言葉は、あるものは自分や周囲を分析する助けになり、あるものは私を励ましてくれた。

今回、読者のために加藤諦三の『心の休ませ方』と『「自信が持てない人」の心理学』の中から選んで、幾つかの言葉を紹介することにする。

加藤諦三の言葉

『心の休ませ方』

甘えられること

これはまさに「至言」だと思う。

甘えようとしている人にとって、相手から甘えられるほど腹の立つことはない。

これは、互いに「相手に甘えたい」という気持ちであれば、互いの甘えたい気持ちがぶつかりあって関係に齟齬をきたす、ということを意味している。

被責妄想

この言葉は、責められながら育つことによって心が歪むことを説明している。

世の中には、「オギャー」と生まれた時から責められて育っているような人もいる。そういう人は、人が責めていなくても、責められていると感じてしまうように育ってもおかしくない。被害妄想という言葉にならっていえば、それは「被妄想」である。

私自身もこれを感じることが多い。

だからといって私が子供の頃から頻繁に怒られたかといえばそうではない。

ただ訳の分からない理由で怒られることは思春期の頃には多かった。

最近は比較的減った気がするが、私は相手の心情が分からない場合、それを「怒り」だと無意識に推測する心の習慣がある気がする。

つまり相手が自分に対して怒っており、私を責める気持ちを持っている、と推測しがちであるということだ。

自分を強くする別れ

この言葉は「心理的に搾取される人間関係」から離れることで強くなれることを言っている。

しかし別れることができれば、心理的事情は一変する。時が経てば経つほど自分に自信が湧いてくる。そして、「自分は、何ですべての意味において損することをしていたのだろう」と思うようになる。

私はこの言葉から友人を切ったりしたこともあったが、むしろ心理的に搾取していたのは私の方かもしれない、と思うこともある。

世間というのは難しい場所であると思う。

同じ人が被害者であり、同時に加害者であるということがしばしばあるからだ。

悩みの種

過去が現在を作っていることを説明している。

あなたはいまの悩みの種を過去のどこかで蒔いている。その蒔いた種が成長して、いま実ったのである。理由もなく生きることに疲れることはない。生きることに疲れるようにいままで生きてきているのである。

これなど仏教的なニュアンスを持った言葉だと思える。

つまり過去の考えや思いの蓄積が現在の自分を作っている、ということである。

環境

育つ環境が重要であることを言っている。

生きることに疲れた人が、人の言葉を重く受けとめたり、あるいはヒステリックに反応するのは、もう一つ原因があるように私は思う。生きることに疲れた人は、つねに言葉のウラには「責める」という意味が込められている環境の中で育ったからである。

「被責妄想」と似たことを説明している。

しかし「言葉」ではなく「言葉のウラ」だということが重要だ。

一見思いやりや愛情から出た言葉でも、その言葉の底に責める気持ちがあるならば、言葉の外観ではなくその言葉に込められた感情が自分の心に影響を与え、自分と言う人間を作るということである。

『「自信が持てない人」の心理学』から

母親の愛情

母親の間違った愛情が子供を苦しめることを説明している。

母親もまた、子供を自分の延長と見なす傾向が強いため、子供の人生をおもちゃにしながらも、子供を可愛がっていると信じている。子供の要求のうち自分の要求と合致したものだけは認知するが、子供が心理的に痛めつけられて、「助けてくれ!」と悲鳴をあげていることについては、まったく気づかない。

母親と父親が与える影響はそれぞれ異なる。

今までもそうだったし、あるいはこれからもそうかもしれない。

母親は特に自分の愛情と子供に対する自分の願いを混同しがちであるということだ。

特に女性が母親と問題を抱えるならば、後々まで大きい影響を引きずるように思う。というのも、同性の親というのは自分の親であるのと同時に「未来の自己像」のような意味も持っているからだ。

親の拒否

親に否定されることを恐れ、子供の心が歪むことを言っている。

子供にとって、親の拒否ほど恐ろしいものはない。親のお気に入りの良い子になることが受容の条件の時、どうして自分の本性などにかまっていられようか。拒否をぶら下げられれば、子供は、自分が親の望むような人間であると信じる。

「親の拒否」は、それが幼少期のように人生の序盤に始まる場合にもっとも怖ろしい影響を及ぼすように思う。

というのも、あまりに早くからそれが始まり「自分が親の望むような人間である」と信じ込んだならば、その自分の心の歴史において古い因習となった自己欺瞞は、当人自身にすら自覚されない場合があるだろうからだ。

大人の甘え

大人の甘えについての解釈。

大人の甘えとは、実際の自分と違った人間であると他人が思うように求めることでもある。

「虚栄心」や「見栄」といったもので、自分を大きく見せるのもここに含まれるだろうと思う。自分がそれほど満たされていないからこそ、他人に自分の幸福や栄光を信じさせて称えてもらう必要があるのだろう。

「敵を騙すにはまず味方から騙す」という言葉があるが、この場合は「他人を騙すことで自分も騙すことができる」ということになる。

忘れ得ない言葉

これは孫引きのような形になるが、素晴らしい言葉だと思う。

私が今まで読んだ恋文で忘れ得ないもののひとつは、ハスケルという人がギブソンという人に出した恋文である。
You can’t disappoint me.(あなたは私を失望させることができない)
ハスケルという人こそがやさしい女性なのである。この恋文をはじめて読んだのはドイツであった。デュセルドルフからハンブルクにむかうバスの中である。私は今でもその感動を忘れない。

「あなたは私を失望させることができない」

こんな言葉を人に言ってもらえ、なおかつそれを拒絶せずに受け入れることのできる人こそが、真に幸福な人なのだろうと思う。

「言葉」というものは不思議なものだと思う。この言葉は別に私に向けて与えられたものではない。にも関わらず、この言葉をを読む時、不思議と私の心は明るくなる。

「あなたは私を失望させるという点では全く無力だ」

「何故ならあなたの全てが私には好ましいことだからだ」

何という素晴らしい言葉だろうか。「愛情」という手垢のついた言葉では表現し切れないほど、この言葉は素晴らしいものだと思う。

最後に

加藤諦三氏は父親との関係において特に難しい問題を抱えていたようだ。

著書を読むと、必ずしも「これは私の父親のことだが……」という言葉が添えられていなくとも、「ああ、これは親父さんのことだろうな」ということが分かる時がある。

そのためにしばしば平易で穏やかな語り口の合間に、「いない方がいい親」というような烈しい表現が見られることもある。

各人が悩む千差万別の心の問題を、加藤諦三氏の著書や考え方は全て解決してくれるとは毛頭思わないが、その表現には難解で、とっつきづらいところが全く見られず、読みながら自分と向き合ったり、自分の心の問題を解決するヒントをもらうには格好のものだと思う。

加藤氏の著書はどのような書店にもあるほど豊富なので、必ずしもネットで求める必要はない。何か感ずるものがある人は是非ネットであろうと、書店であろうと一度手に取って読んでみてほしい。