福田和也『第二次大戦とは何だったのか』

福田和也の『第二次大戦とは何だったのか』は、第二次大戦と、その大戦における欧米とアジア(日本と中国)における戦争指導者たちを扱った著作である。

福田和也『第二次大戦とは何だったのか』

福田の著作は(私は比較的真面目な部類のものしか読まないが)どれを読んでも面白いが、この『第二次大戦とは何だったか』は格別に面白かった。

日本にとっての第二次大戦

書き出しの部分や、そして「日本にとっての第二次大戦」のある部分では、福田がわずかに恐怖心を持ちつつ筆を進めているような気がしたが、あるいは邪推かもしれない。だがもしそうだとすれば、それは福田が生々しい歴史観論争から距離を置きたいという意識の表れだと思える。

福田はほとんどの場合、一貫した理知的態度、つまり「客観的」視点から第二次大戦を眺めてはいるが、我々日本人がそれを行うのは苦しいところもある。我々にとって第二次大戦は、本当の意味では終わってはいないからだ。もちろん福田がそれに盲目と言っているわけではなく、そのことに深入りして周囲の喧噪が増すことへの恐れがあるように感じられたように思う。

敗戦は、いまだに私たちの上に、有形無形の形でのしかかっている。敗北したという事実は、日本人の意識を決定的に拘束している。同時に、敗北にともなう占領下で敵軍が行ったさまざまな施政・工作が、日本の政治制度から無意識までをも支配しているのだ。

戦争指導者たち

第二部の「指導者たち」で、福田は主要な戦争指導者たち、つまりシャルル・ド・ゴール、ルーズヴェルト、チャーチル、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン、蒋介石、東条英機という人物を各一章ずつ取り上げて書いている。

ド・ゴールについて書いている章では、以前私が書いたものの「大袈裟なことを言い過ぎたか?」と自信がなくなってゴミ箱に入れた記事内容について、自信を取り戻すことができた。

ここでは、プーチンという人物に対して、私が抱いた、あるいは抱かされたイメージについて語ることにする。 「プーチンのロシア」の試論的考察 ...

そして福田の筆から現れるド・ゴールの孤独な、しかし偉大な横顔には心を打たれた。

ルーズヴェルトについて書かれた章におけるこの文章にはメディア等を見ながら福田が平素感じているであろう苛立ち、もしくは皮肉な視線が感じられる。それはアメリカの大統領候補を選ぶ民主党大会で、一番の争点が禁酒法の廃止問題であったことについてだ。

今日から見るとこのような問題が、大きな争点となっていたことは信じがたいが、政治家たちが当面の致命的課題とかけはなれた問題に意識を集中することで現実を逃避することは、危機が深刻であればあるほど、よく見られる現象である。むしろそうでないことの方が珍しい。

ムッソリーニとクルツィオ・マラパルテ

福田は、日本であまり広く知られてはいないが、認識するに値するマイナーな人物をよく取り上げるのだが、『クーデターの技術』や『壊れたヨーロッパ』の著者、イタリアのクルツィオ・マラパルテもその一人だ。

そして『第二次大戦とは何だった』でもっとも面白い箇所は、マラパルテ自身、そしてマラパルテの眼を通して見たムッソリーニの姿を描いているところかもしれない。

マラパルテはムッソリーニを揶揄した風刺文を書いたかと思えば、逆に詩集ではムッソリーニを絶賛し、「イタリアのゲーリング」と呼ばれたイタロ・バルボをパンフレットで褒めたかと思えば、バルボを脅迫して逮捕されるという複雑かつ奇怪な二重性を持った男だ。

建築批評家たちを集めてモダニズム建築を選ぶ投票をさせれば、必ず上位に入るような邸宅を自らの設計でカプリ島に建て、戦後は一転して共産党への入党を目論み、ついに死の床でトリアッティ自身から党員証を授与されると、ファシスト党の党員証と一緒に破りすて、ついでに長年のプロテスタント信仰も破棄して死んだ男。

そして福田はマラパルテの『壊れたヨーロッパ』を取り上げるが、そこに見られるムッソリーニとその娘エッダとの関係性には、非常に興味をそそられるものがある。

マラパルテによれば、ムッソリーニの「真のライヴァル」は娘であり、娘の正体を知っていたムッソリーニは、不安と恐怖心から娘を執拗に監視し、ついには外務大臣のチャーノ伯爵に彼女を押しつけた(嫁がせた)のだという。

自身の周りに浮薄な男女を集めて享楽を尽くし日がな賭け事に励んでいるエッダを、女性たちは「エンマ・ボヴァリー」だと断ずるが、マラパルテは彼女は「スタヴローギン」であると、つまりはフローベールの描いた凡庸きわまる倦怠した田舎の主婦ではなく、ドストエフスキーの創造したもっとも不吉な人物であると述べる。

ヒトラー

また福田が大戦後において「ヒトラーの悪魔化が、むしろ近年より一層強く押し進められているかに見える」としているのは興味深い。

福田の視点とは全く関係ないが、私がヒトラーについて考えるのは、五島勉の『1999年以後』が主題にしているようなこと、つまりヒトラーには何か悪霊じみたものが憑りついていたらしいということを理解しなければ、この人物の全体像は把握できないだろう、ということだ。

もちろん、こうした視点で世界史における重要な人物を解釈することは、素人であれ専門家であれ、真面目な人なら誰でも抵抗があるであろうことは承知の上でだ。

実際、我々の周りやメディア等では、「自称」であれ何であれ、霊能者やその種のことを語る人物はいるものだし、(また当人自身で体験したりと)我々もしばしばそれを信ずるにも関わらず、この種の要素は議論が真面目な種類のものになればなるほど忌避され、無視されることになる。

しかし、良くも悪くも歴史的に大きな役割を果たした人物に、超人間的な存在の働きかけがあり、そしてその要素を無視することはできないというのは、時代であれ道徳的な位置づけであれ、全く対極にいる二人の人物、ヒトラーと(『ダイモニオン』の働きからについて語った)ソクラテスくらいなものだろう。

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