闇金バブル時代に大金を儲けた「歌舞伎町阿弥陀如来」こと藤井学は、出身地が東京・杉並区の高円寺で、世代も近いことから、関東連合の中心世代のメンバーとも交流があったことをその著書『歌舞伎町阿弥陀如来』で書いています。
『歌舞伎町阿弥陀如来』ではイニシャルで実名が伏せられていますが、登場する関東連合メンバーは前後の文脈から判断するに、見立真一と松嶋クロス(重)であることが分かります。
さらには、藤井学は瓜田純士とも交流があり、また夜の店では木村兄弟の弟の木村孔次朗ともトラブルを起こしたことがあるといいます。
ここでは藤井学の著書『歌舞伎町阿弥陀如来』から、藤井学と、見立真一、松嶋クロス(重)、瓜田純士、木村孔次朗とのエピソードをまとめました。
藤井学と杉並の関東連合メンバーの関係は?
藤井学は昭和51年生まれ。関東連合の中心世代である見立真一や松嶋クロスらは昭和53年世代なので、2年上の地元の先輩ということになります。
『歌舞伎町阿弥陀如来』でも次のように書いています。
ちなみに、そんな俺が暮らしていた杉並区の高円寺という地域だが、不良事情にある程度詳しい人ならピンと来るところがあるかもしれない。
この街は、数年前にニュースなどでも話題になった、昭和53年世代以降の「関東連合」の中心メンバーの地元でもあった。
その世代のメンバーたちが、他の不良グループとも抗争をし、のちに大人になってからも社会を揺るがす事件を起こしていく。俺よりも2つ年下の世代だ。
そして、この著書の『歌舞伎町阿弥陀如来』では、関東連合のメンバーとして「M」と「S」という人物が出てきます。
関東連合のナンバー1とナンバー2とも言われる松嶋クロス(重)と見立真一は、いずれも本名のイニシャルは「M・S」となります。
しかし瓜田純士と仲が良く、行動を共にしていたということから「M」の方が松嶋クロス(重)、関東連合の中心人物で、六本木クラブ襲撃事件でフィリピンに逃亡した等の情報から「S」の方が見立真一であることはほぼ間違いないと思われます。
M=松嶋重(松嶋クロス)
S=見立真一
以下、引用文()内に適宜それを記しておきます。
藤井学と松嶋クロス
松嶋クロスについてはこんな記述があります。(文中「Y君」は地元の先輩)
そのグループのメンバーとなるM(松嶋クロス)も、同じ地元ということもあって、よく一緒に行動していた仲間の一人だ。
「チーマーを狩ろうぜ!」
俺が16歳のときだ。Y君が地元の後輩たちを誘い、チーマーと喧嘩しに車で渋谷に向かった。そのときM(松嶋クロス)は中学2年生だったが、同じ車に乗り、チーマー狩りのメンバーとなっていた。M(松嶋クロス)は髪をアイパーできめていた。一方の俺はサーファーチックに金髪で、髪を伸ばし、オールバックにしていた。
「おまえの髪型、決まってんじゃねぇか!」
俺が褒めてやると、M(松嶋クロス)は気恥ずかしげにうなずいていた。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
上のエピソードで出てくる「チーマー狩り」は、瓜田純士の著書『遺書』にも書かれており、それによると、松嶋が瓜田らに命じて当時勢力があったチーマーの「イラプション」や「BADーG」といったグループを潰させたということです。
おそらく、それはここで書かれているより少し先のことと思われます。
松嶋クロス(松嶋重)の瓜田純士『遺書』での喧嘩・抗争エピソード
藤井と松嶋はこのように一緒にチーマー狩りをするなど一緒に行動していましたが、その後、藤井は松嶋からある言葉をかけられて、今まで通りの付き合いができなくなったといいます。
M(松嶋クロス)は、俺にとってはかわいい後輩の一人だったのだが、関東連合のあるグループ(ブラックエンペラーのことか)のトップにS(見立真一)という男が降臨し、その男を中心にまとまり始めてからは、後輩たちは俺たちと距離を取り始めるようになった。S(見立真一)というのは、のちに六本木のクラブ襲撃事件の主犯として指名手配され、フィリピンに逃亡する男だ。
「俺たち、こういう事情なんで、これからは今までのように先輩として接することはできないので。自分もグループの先輩以外には頭下げられないんで」
その組織の中心メンバーとなったM(松嶋クロス)は、そう言ってきた。一人の人間がいくつもの組織に属すると人間関係がこんがらがってくる。
それに対して当然、高円寺の先輩である俺や、Y君やB君(地元の先輩たち)も激怒した。どこの地元でもそうだが、不良文化においては、地元の先輩を立てるというのは絶対だった。
しかし、関東連合は、そんな不良の掟を無視し、先輩だろうが何だろうが、「上をまくる」ということを躊躇しなかった。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
『実話ナックルズ』誌上の工藤明生との対談では、この松嶋の「宣言」について藤井は「(今まで通りの付き合いはできないと言われ)寂しい思いもした」と言っています。
工藤明生と藤井学「歌舞伎町五人衆」対談『実話ナックルズ』記事全文
松嶋クロスについては、藤井は「弟みたいな存在」「かわいい後輩」「仲間思いでいい奴」と言っており、今まで通りの付き合いをやめる宣言をされた後も、松嶋について「骨のある男になったな」と思っていたほどだといいます。
藤井学と見立真一
藤井学と見立真一は、藤井と松嶋ほど深い付き合いはなかったようですが、こんなエピソードが書かれています。
10年以上も前になるが、そんなS(見立真一)と六本木の街中で会ったことがある。S(見立真一)は2人の舎弟を連れていて、俺は集団で歩いていた。
お互いに顔は見知っていたし、無視して歩くのも変だったので、俺は声をかけた。
「おう、S君じゃないか」
すると、Sが連れていた舎弟が言った。
「こんなトコでよ~、杉並の先輩に会うなんて珍しいよなあ」
Sはそれに対してたしなめることもせず、ニヤニヤと笑っていた。
そんな態度を見たとき、俺は怒るというよりも、悲しみを覚えた。
「こんな生き方をしていたら疲れるだろうなあ」
そう感じてしまった。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
関東連合について
そして藤井は、自分たちは関わった人を大事にして、仲間に対しては絶対の信頼感や温かみを感じていたと書いた後、関東連合という組織についてこのようにまとめています。
でも、関東連合の奴らは常に誰かをまくろうと考えていて、疑心暗鬼になっていた。大勢の人の前で相手に対して偉そうな態度を取ることによって、自分の力を誇示しようとする。いわゆるマウンティングだ。どちらが上なのか、誰が上なのかを決めておかないと、彼らは落ち着かない。
だから、トップに立つS(見立真一)は、下の者を服従させ、下からまくられないように気を張っていた。同じグループ内であっても、気を抜くことすらできないのだ。
そんな組織が安定するわけがない。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
藤井学と木村孔次朗のエピソード
画像:木村兄弟の弟・木村孔次朗
木村兄弟は当時関東連合と敵対しており、有名な六本木クラブ襲撃事件も、木村兄弟の弟の孔次朗と被害者を人違いしたことで起きたと言われています。
藤井学は木村孔次朗と夜の店でかち合ったことがあるそうです。
それは、俺が新宿のキャバクラのVIPルームで飲んでいたときのことだった。その部屋を出てトイレへ向かおうとすると、いきなり3~4人ぐらいの男たちに囲まれた。
「おう、学くんよ。女が学くんの名前を出しているんだけど、どういうこと?」
リーダー格の男が、そう威圧的に言ってきたのだ。
よく分からないのだが、何かやらかしてしまった女が、K(木村)兄弟に対して俺の名前を出したらしい。その女はおそらく、新宿で知られている俺の名前を出せば、相手が怖がって引き下がるとでも思ったのだろう。
こちらはそんな女なんて知らないし、そもそも、この偉そうに突っかかってきている男は誰なのかと思った。
「俺のこと知ってるんだろ? K兄弟の弟(木村孔次朗)だけど」
男はそう言った。
それがK兄弟の弟で、関東連合が必死になって殺そうとしている奴だった。背はそんなに高くないものの、気合いの入っている風貌の持ち主だ。兄のほうとはそれ以前に飲んだりしていたが、弟とは初対面だ。不良として名を馳せているだけあって、なるほど、風格は確かにあった。
いったい、何の目的があって因縁をふっかけてきたのだろうか。こういうときはおおむね周りで空気を入れる奴がいるものだ。
「○○が、××さんのこと、△△って言ってましたよ」
そんなことを言って、わざとけしかけるように差し向けてくる。そして、空気を入れられたほうも、後先のことを考えないから、「よし! それじゃ、やってやろうじゃないか!」となるわけだ。
「意味が分からねぇ、分からないことは分からないからよ」
俺はその後、VIPルームに戻って弟と話した。
そして最終的に、
「俺、東京獲るんでよろしくお願いします」
と、弟は言ってきた。「いやいや、俺は仕事をやっているだけで、東京を獲るとか興味ないから。話ぐらいは聞くけれど、手は貸せねぇぞ」
俺はそう答えた。引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
瓜田純士とは仲違いした?
さらに藤井は瓜田純士についても書いています。
藤井学は(現在では更新していないものの)ブログをしていましたが、それも何と瓜田の勧めで始めたそうです。
俺は29歳のときにブログを始めていた。もともと、俺の地元の後輩に「学くん、ブログがいいっすよ」と勧められたのがキッカケだった。
その後輩というのは、こうしたアウトロー事情に興味がある人間なら、知っている人も多いだろう。
瓜田純士という男である。
(中略)
新宿で暮らしていた瓜田は、中学生の頃、高円寺へやってきたことがあった。年齢は関東連合メンバーであるM(松嶋クロス)の一つ下で、彼と同じ中学校だった。俺からすると、3つ年下にあたる。
当時の瓜田は腕っぷしも強く、群を抜いた不良だった。それでいて、後輩には優しくて、ハートもあった。性格的には一匹狼で、群れをなさずに自分のスタイルで生きるタイプだ。
そんな中、M(松嶋クロス)とは仲が良くて、2人はよく一緒につるんで遊んでいた。
その頃、俺と瓜田は、地元の先輩と後輩という間柄で、顔を合わせたら挨拶をする程度の仲だった。その後、瓜田はいち早く暴力団に入り、地元の不良の世界からは離れていく。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
瓜田純士は暴れすぎて新宿の中学に通えなくなってからは、松嶋クロスと同じ杉並区立の高南中学校に通っていました。
よく虚言壁があるとも言われる瓜田ですが、中学の頃に「群を抜いた不良」だったことは、藤井も言うように嘘ではないようです。
また瓜田が入っていた「暴力団」とは、極東会系・桜成会・長谷川組だと言われています。
長谷川組(三次団体)が現在でもあるか不明ですが、桜成会(二次団体)は現在でも「二代目真誠会(しんせいかい)」として存続しているようです。
瓜田と親密な関係になったのは、俺が29歳の時だ。
瓜田はとある件で刑務所に入っていたのだが、出所してきた。そのとき、俺は放免祝いで10万円を手渡し、「俺ができることならやってやるよ」と約束したのだった。
俺が瓜田に対して、このように協力的になったのにはワケがあった。俺の兄弟分であり、生涯の親友と言ってもいい桜井義光のことを、瓜田は庇ってくれたことがあったからだ。義光が窮地に陥ったときも、瓜田は気を使い、義光をサポートしてくれた。だから、俺もその恩返しができればと思ったのだ。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
文中に出てくる「桜井義光」は藤井と同じ高校で出会い、親友になったといいます。
詳細は『歌舞伎町阿弥陀如来』の中でも明らかにされていませんが、この桜井義光は、関東連合と練馬とがゴタゴタする中で、若くして命を落としてしまったそうです。
瓜田が「THE OUTSIDER」のリングに立った際には、セコンドとして付いた。クラブに一緒に行ったり、瓜田が監督する映画『ブルーベリー~僕の詩・母の歌~』(GPミュージアム)制作の折には、その撮影を手伝った。
瓜田はとにかく目立っていて、トラブルも絶えなかったため、その喧嘩の仲裁に入ったこともある。
元暴力団でありながらも、作家や映画監督、格闘イベントに出演したり、ミュージシャンとしてステージに立つ瓜田の生きざまは、まさにアーティストだと言えるだろう。
俺にとっては、かわいい後輩だったし、その才能も誰よりも認めていた。
しかし、俺たちの関係を引き裂く一件が起こった。おそらく周りで空気を入れるような奴がいたのだろう。
ある日、瓜田が俺に突っかかってきた。正直なところ、俺は、なぜ瓜田がこんなにいきり立ってるのか分からなかった。
この一件があってからというもの、今、俺は瓜田と仲たがいしていて、連絡は取り合っていない。
引用:藤井学『歌舞伎町阿弥陀如来』
以上になります。