臨済宗の開祖・臨済の逸話「臨済破夏の因縁」【禅・臨済録】

仏教には「夏安居(げあんご)」あるいは「雨安居(うあんご)」ともいわれる規則があります。夏安居は釈尊の時代からある規則で、雨が降る夏の間は外出に不便で諸国を行脚できないので、その間は釈尊の側に留まり、説法を聴きながら修行をしたことが起源です。

この安居が行われる夏(げ)の三か月間は「禁足護生(きんそくごしょう)」といって、外出が禁じられます。臨済宗の開祖・臨済には、この夏の規則を自ら破った逸話があります。

これは「臨済破夏はげ因縁いんねん」と呼ばれ、臨済の語録である『臨済録』でもっとも重要な一条だと言われています。

臨済破夏の因縁

臨済、夏中に帰る

既に悟りを開いていた臨済は、諸国を遍歴して黄檗のところに戻ってきました。それは夏中のことです。夏安居の規則は、夏の前に来て、夏が終わってから去るというものなので、本来ならこれだけで既に規則違反です。

ところがそれだけでなく、師匠の黄檗のところへ行くと、ちょうど一生懸命にお経を読んでいた師匠を見るなり、こんなことを言いました。

俺は黄檗こそ天下の大和尚だと思っていたが、何のことはない、黒豆を一粒ずつ拾って食うようなことをするつまらん坊主だったのか

しかし黄檗は何も答えません。

臨済、夏を終える

数日経つと、臨済は黄檗に挨拶して立ち去ろうとします。

またも規則を破ろうとするわけです。

黄檗はさすがに見咎めて言いました。
お前は夏の最中に帰ってきて、今度はまた夏が終わる前に去ろうというのか

臨済は一向に悪びれずに答えます。
「私はちゃんと挨拶に来ました、それで十分でしょう」

黄檗は怒って臨済を叩きに叩き、その勢いのまま僧院を追い出してしまいます

既に悟りを開いていた臨済ですが、そこにあるわずかな慢心は、師匠の黄檗には見過ごすことのできぬものと見えたのです。

黄檗に追い出された臨済は、構わず数里(1~3kmくらいか)ほど歩きました。

しかし途中で思い直して引き返し、しっかりと夏が終わるまで務めたのです。

この部分の記述は『臨済録』ではとても簡潔で、「師(臨済のこと)、行くこと数里にして、此の事を疑って、却回(きょうい)して夏を終う」とあるだけです。

おそらく、たった数里の間ですが、師匠の黄檗にとって自慢の弟子であるはずの自分を何故それほど怒ったのか、つらつら考えて思うところあったのでしょう。

百丈禅師の禅板と机案

しっかりと夏中の修行を終え、再び師匠に辞するための挨拶に行った臨済に、黄檗は尋ねました。「どこか行くあてはあるのか?」

すると、相変わらず生意気な臨済は師匠にこう答えます。
「河南じゃなければ河北に行きます。河北じゃなければ河南に行くというだけのことです。別に行く場所なぞ決めてはいませんよ」

その答えを聞いて、黄檗は持っていた竹箆(しっぺい・修行者を打つための竹の道具)で臨済を叩きますが、これは臨済を褒めてのことです。しかし、臨済は臨済で黄檗のその腕を掴むと、あべこべに横っ面をひっぱたきます。

黄檗は満足して大いに笑い、侍者を呼びます。
百丈先師の禅板と机案を持ってこい
黄檗は自分の師匠である百丈の禅板(ぜんぱん)と机案(きあん)を臨済に与えようというのです。

昔の禅僧というのは夜も横臥して眠らず、座禅の姿勢で眠ったそうです。禅板と机案というのは、禅板を懐に入れて顎を乗せ、背中に机案という板をあてて、座禅しながら眠るための道具です。

そして「百丈先師の禅板と机案」とは、黄檗の師匠である百丈が使っていた形見の品で、これを貰えるということは、臨済を黄檗の禅の正統な後継者として認めたということを意味します。

ところが、禅板と机案を持ってこようとする侍者に臨済はこんなことを言います。
「ついでに火も持ってこい」
そんなものは燃やしてしまえ、というわけです。

しかし黄檗は「まぁそう言わずに黙って持っていけ。この禅板と机案は、わしの正統を継いだ証拠になる。世間の不要な批判をかわす助けにはなるだろう」

こうして臨済は黄檗の仏法を名実ともに受け継いだ、というお話です。

まとめ

如何だったでしょうか?

夏の規則を破った臨済に黄檗はわずかな慢心を見抜いて咎め、また自ら戻って夏の修行を終えたことから臨済の禅は完成した、ということになります。

臨済が思い直して戻らなければ、今日の臨済宗はなかったかも知れません
とても面白い話ですね。

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