善悪の流動性、日本の戦後社会を例にした「善悪の推移」について

我々は日頃から「悪い」とか「善い」という言葉を使うことがあるが、しかしこの「価値」や「善悪」とは、固定的なものではなく流動的なものである。この「価値観」や「善悪」の具体的推移を、戦後の日本社会を例に考察してみたい。

日本の戦後社会を例にした「善悪の推移」

戦時中、国家、軍、また「大東亜戦争」それ自体、これらのものはであった。

ところが戦争に敗れ、これらの価値は、占領軍や、それに協力的・友好的なメディアや文化人によって積極的に否定された。

数十年後には、このような歴史的価値観は日本人に深く浸透し、自明化していった。国家、軍、「大東亜戦争」これらは悪として措定されたがゆえに、逆にそこから遠い位置にあるもの、それが善となった。国民、市民、「平和」がそれである。

ここからは、価値として否定されたもの、すなわち「悪」がどのように生起するか、また価値として肯定されたもの、すなわち「善」がどのように生起したかを、別個に考察してゆきたい。

価値の連鎖倒産・悪の生起

ここで注意すべきは、価値として没落するものは直接的に価値を否定された当のものだけではない、ということである。つまり直接的に否定された当のものだけでなく、それらと関連の深い事物も一様に没落する、ということである。これを私は、価値の連鎖倒産、と呼ぶ。

例えば、国家に近いものとしての権力、権力に近いものとしての父権、また大人が価値として凋落する。戦争に近いものとしての兵士・職業軍人、男性、これらのものが価値として没落する。

価値の連鎖生起(興隆)・善の生起

また、戦後に「価値がある」とされたもの、つまり「善」とされた様々な概念を列挙してみよう。

「生命」「命」「平和」「未来」「子供」「個性」、こうしてみれば、これらが否定されたものの対極にあるものか、もしくは対極にあるものと類縁関係にあるものだということは明白だろう。

「生命・命・平和」は戦争の否定から大きく興隆した価値だ。また「未来」は伝統が代表とする「過去」が「大東亜戦争」とともに否定されたので興隆した概念だ。「子供」は国家否定からの権力否定、権力否定からの大人の否定によって価値として興隆した。国家という「共同体」、または軍隊的な「集団」の対極にある「個人」の価値生起、個人の核としての「個性」の価値的生起。

ここでも価値の没落(否定)と同様、生起するのは否定されたものの対立項だけではなく、このように否定された対極にあるものと、それの類縁関係にあるものが価値として連鎖的に生起している。こうした現象を私は価値の連鎖生起、あるいは価値の連鎖興隆と呼ぶ。

戦後的な「キャッチフレーズ」を思い浮かべてみるのもここでは有意義だ。例えば「かけがえのない命」。日本が戦争に敗けていなければ、福田赳夫は「人命は地球より重い」などと言わなかったろう。また二つを組み合わせた言葉も聞き馴染みがある。「子供たちの未来」がそれだ(私は大嫌いなフレーズだが)。

戦後的価値観は「否定」に発する

このように考察してみると、戦後的価値観はニーチェのいう「貴族道徳」と「奴隷道徳」の区分における「奴隷道徳」と同じ特徴が見出せる。

というのも、ニーチェは「貴族道徳」の特徴として、強者の「自己肯定からの出発」を、「奴隷道徳」の特徴として、弱者の強者に対する「他者否定からの出発」を挙げているからだ。

つまり「出発点」が「肯定」なのか「否定」なのか、という相違が見られるのだが、まさに戦後的価値観は戦前的価値観の「否定」から出発しているのである。

善悪の流動性について

悪の一側面

これまで具体的に善悪の価値の生起を追ってきたことから、(戦前の『国家主義』のように)悪も元々は善として存在していた場合がある、ということが明らかである。それが悪になったのは、先の事例で言えば、戦争に敗けた結果なのである。いわば、それは「敗退した価値観」なのだ。このようにも表現できよう。

「悪とは敗北した善である」

善の一側面

またそれ(戦前における日本の『国家主義』)は初期には「右翼のテロリズム」という形で、日本国内で「悪」として存在し、戦時中国家の中心的思想(善)となり、敗北とともに徐々に道徳的「悪」へと傾斜(没落)していった、という経過を考えるなら、こうも言えよう。

「善も始まりと終わりには悪である」

価値観の盛衰の法則性

しかし、こうして考察してみれば、価値観の盛衰は(少なくとも近年起こったものに関していえば)必ずしも魔術的で霧の向こうのベールに覆われたものではなく、論理的に整理すれば可視的なものとして法則化することが可能だ、ということが分かる。

ある事柄が強く否定されると、それと類縁関係にあるものも否定され、その対極のものは肯定される。またある事柄が強く肯定されると、それと類縁関係にあるものも肯定され、その対極にあるものは否定される、ということだ。そして価値・善悪は短期的には固定されているが、当然ながら長期的には流動的である。

生起した悪の末路

また、これにともなって非常に興味深い事象についても指摘しておきたい。それは戦時中は善(価値)であり、戦後は悪(非=価値)になった「国家主義」が辿った運命についてだ。

「国家主義」は戦時中「善」であった。それゆえ多くの人が「善であるがゆえに」求められたといえる。ところが、戦後「悪」になった「国家主義」はどうなっただろう。それは「悪であるがゆえに、社会的に「悪」の側に属する人々に求められたのである。

右翼がヤクザと兼任されるような「反社会的組織」との親和的傾向、また、思想的には本来まったく関係のないはずの暴走族の少年が「特攻服」や所属する「族」のシンボルマークとして国家主義的なデザインを採用することが頻繁にあったことを思い起こしてもらいたい。そしてこれはドイツの「ネオナチ」でも事情は同じであろう。

つまり、勃興した価値(善)は「善であるがゆえに」求められ、没落した価値、つまり非=価値(悪)は「悪であるがゆえに」求められる、これは甚だ興味深い現象だと思わないだろうか。

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