男性性・女性性は実在するのか、性同一性障害の考察

ジェンダーフリーとは、フェミニストを中心にして為されている「男らしさ・女らしさ等の性規範は撤廃されるべき」という主張であるが、これを否定する際に、ジョン・マネーが行なった実験の無残な失敗を持ち出されることがある。

割礼手術の失敗から陰茎の大部分を失ったカナダ人の少年・デイヴィッド・ライマーについて悩んだ両親が、性科学者ジョン・マネーの勧めで少年を「ブレンダ」と改名して女性として育てたが、彼は次第に精神的に荒廃し、最後には自殺してしまった。
そしてこのジェンダーフリー支持者は、しばしば男女が持つそれぞれの固有の性質を否定するのだが、私はわざわざジョン・マネーの実験失敗の例を持ち出すまでもなく、よく知られている事例で先天的な性差は証明できると思っている。それは性同一性障害だ。

性同一性障害が意味するもの

性同一性障害者は、男の肉体や女の肉体を持って生まれながら、その逆の性としての自覚を持つに至る。男性の肉体なのに女性としての自覚を持ち、女性の肉体なのに男性としての自覚を持つ。

当人の感覚

性同一性障害者は自己の肉体の性に対して反駁し、また(自己の肉体の性に応じた)周囲の人が男性あるいは女性として扱いのにも反駁する。

この反論はまったく自発的に行われるのであり、それは自己の肉体に反して「自分が男だと考えた方が一層自然だ」もしくは「自分が女だと考えた方が一層自然だ」という当人の感覚に基づいて行われる。

そしてこの当人の感覚が何を意味しているかといえば、それは内的な男性性や女性性がまったく社会の押し付けとは無関係に自律的に存在しているということだ。また、この当人の感覚を「性自認」という言葉だけで表現してしまうのは、この事態が何を意味するのかを曖昧にしてしまうと思える。

内的性差あるいは欲求の性差

というのも、「性自認」という言葉で表現するならば、そこで求められているのは「男」あるいは「女」という記号のようなものでしかないように思えてしまうが、この「当人の感覚」はもっと実質的な内容のあるものからだ。

それは自分に付された記号としての「男」あるいは「女」に対する違和感ではない。まず始めに自己の内的な感覚が社会的に「男性的なもの」とされる領域に一致し、あるいは「女性的なもの」とされる領域に一致する、ということを性同一性障害者は発見する。

それによって自己の「男性性」あるいは「女性性」が自覚され、その次に「性自認」つまり「自分は男だ」あるいは「自分は女だ」という自覚が発生するのであって、この順番は逆ではない。それならば、確かに後天的な社会的・文化的規定から免れた先天的な男性性・女性性は確かに存在していると言わざるえないではないか。

というのも、性別の「社会的決定論」に従えば、彼らの内面は社会が決定するのだから、自己の肉体の性別通りに周囲に扱われることで、その肉体に見合った内的な男性性や女性性が後天的に形成されなければ、理論上辻褄が合わなくなるからだ。

性同一性障害者が確かに自己の中に発見し、「性自認」それ自体ではなく、「性自認」の原因となったもの、それこそが「女性性」や「男性性」であり、いわば男女の先天的かつ内的な性差だ。

もしその「内的な性差」を限定的に定義づけなければならないとすれば、私はそれを、「欲求における性差」と呼ぶだろう。というのも、性同一性障害者は、自分が「望むこと」と「望まないこと」が、肉体の性に由来して社会的に認知された性と一致しないことに何より苦しむと考えられるからだ。

性別の社会的決定論

この性同一性障害が伝統的な男女観に背馳するのは、「肉体の性と心の性の不一致」という一点だけであって、それ以外についてはラディカルなジェンダーフリー論者、性別の「社会的決定論」の主張と相反するものを提出している。

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