バタイユの『エロティシズム』序論冒頭の言葉および禁止と侵犯

フランスの思想家ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)の『エロティシズム』は1957年、彼が60歳の時に出版されたものである。

バタイユの『エロティシズム』は現代思想のもっとも重要な論考の一つであり、性・暴力・死・聖性といった人間の異なる位相を、「禁止と侵犯」という対概念によって一挙に説明しようとした野心的作品である。

その構成は第一部「禁止と侵犯」、第二部「エロティシズムに関する諸論文」に分かれているが、ここでは主に第一部の「禁止と侵犯」を中心にして、そこで表現された人間の性に関する思想を中心に、噛み砕いて説明することにする。

バタイユの『エロティシズム』解説

「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだ」

バタイユの『エロティシズム』は、序論の冒頭に突然「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」という有名な言葉が現われて、読者を面食らわせるが、これも頭をひねって悩む必要はない。

簡単に説明するなら、性とは生殖と関係した領域であり、したがってもっとも生命の根幹に関わるものである。ところが性的快楽はその果てに、腹上死(=性行為の興奮の末に死ぬこと)やサディズム・マゾヒズムの極致のように、対象者や自己が死ぬことまでも時に結果したり、あるいは期待されたりすることがある。

このように、生殖という生のもっとも直接的な基盤から芽生えた「性」というものが、時にその基盤自体を破壊するという結果を招くことがある、それほどエロティシズムは特異で矛盾した衝動・情念である。

そのことをバタイユは「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」という言葉で表現したのである。

禁止と侵犯

「禁止」と「侵犯」は、バタイユが『エロティシズム』の第一部の名をそれに当てていることで分かるように、『エロティシズム』のもっとも根底的な主張であり、それを理解できれば『エロティシズム』の全体がおおむね理解できるといって過言ではない。

まず侵犯すべき「禁止の規則」が存在しないなら侵犯できないのだから、「侵犯」は「禁止」なくして成り立たない。一方で侵犯されることがないならば、禁止それ自体が無意味というか空虚なものになる。

何故なら「禁止は侵犯されるために存在している」というバタイユの言葉が示すように、禁止と侵犯は対立しつつも互いに助け合うような相補的な概念だからだ。

それについてバタイユは端的に「侵犯は、禁止に対する否定ではなく、禁止を乗り越え、禁止を補って完成させる」と語っている。

つまり、「禁止への侵犯」は「禁止」の規則それ自体を破壊して消滅させるのではなく、禁止の規則に「上書きされるもの」なのである。

性の禁止

エロティシズムを可能にする「性の禁止」について、バタイユはこのように述べる。

だが一般にどの民族も勃起した男性器は人目から隠そうとする。そして性の交わりのときには男女はたいがい人気(ひとけ)のないところへ引きこもる。

つまり公の空間において性行為は「禁止」されている。

そして、そのように性が禁止されたものだからこそ、それを侵犯する時に「エロティシズム」すなわち性的欲望が芽生えるのだとバタイユは考えた。

これは一見逆説的で理解しにくいかもしれないが、身近な例を引くならば、けして理解しがたいことではない。

例えば、我々は「女性の乳房」をエロティックな、すなわち「性的なもの」と捉えている。ところが、テレビ番組でアフリカやアマゾンに住む部族を訪ねる番組では、そこに暮す部族の女性はしばしば乳房を露出しているが、我々はそれを一般に「性的」な視線で見ることは(絶対とは言わないが)ほとんどない。

それは、我々の文化圏において「乳房を隠す」すなわち「女性の乳房の(公空間における視認の)禁止」こそが、女性の乳房を性的なものにしているからである。裏返すならば「女性の乳房」は、それ自体としては必ずしも性的なわけではないということになる。

性における侵犯

「侵犯」それ自体が「禁止」を完成させるものであり、したがって禁止の一部である、という発想は、バタイユの「しばしば禁止の侵犯も、禁止と同様に規則にしたがっている」という言葉からも窺うことができる。

このことは、我々が原則として公空間での性行為や性的な部分の露出を禁止しつつ、ラブホテルや私邸の密室においてはそれが許されている、という事実に対応している。

バタイユに従うなら、もしあらゆる場面で性が許された場合には、許された性はもはや性たりえていない、ということになる。

例えば、卑近な例をあげるならば、セックスレスに悩む妻が夫を誘うためにセクシーな下着を着けるが、それがかえって亭主をげんなりさせるのは、その時、夫にとって「妻との行為」は妻によって許可され、禁止の対象ではなくなっているからである。

一方で妻が誘いもしないのに、衣類の隙間から乳房が少し覗くことで亭主が欲望を覚える、ということ(俗語にいういわゆる『チラリズム』)がかえって欲望をそそることがあるのは、その時、妻の肉体が「性の禁止」を象徴する衣類に覆われているからだと解釈できる。

また、我々は性を極力子供の眼から遠ざけるようにしているが、それは何故なのか。何故成長してから必須のものとなるはずの性を先回りして教えずに、あえて遠ざけるのだろうか。その理由も、この禁止および侵犯によって説明できる。

つまり、禁止なくしては侵犯は成り立たないのだから、子供時代に強く性を遠ざけることは、それによって禁止をその子供に定着させ、そのことによって侵犯(性的欲望)が侵犯として正常に機能するようにと、我々は無意識に配慮しているのである。

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