ソクラテスの「ダイモーンの合図」の正体は「くしゃみ」だという説

ソクラテスにまつわる有名な話として、常に「禁止」の形であらわれて彼の行動を制止したという「ダイモーンの合図」についてのものがある。

通例では、これは「一種の幻聴のようなもの」と解されている。

しかし田中美知太郎の『ソクラテス』を読んでいたら、それについての面白い説があったので紹介する。それは何と、「ダイモーンの合図」の正体とは「くしゃみ」というのだ。

それで興味を持ったので、その説が登場するというプルタルコスの対話篇『ソクラテスのダイモニオンについて』を西洋古典叢書を買い求め、該当箇所を読んだ。

ソクラテスの「ダイモーンの合図」

プルタルコス『ソクラテスのダイモニオンについて』

「ダイモーンの合図=くしゃみ」説はプルタルコスの対話篇である『ソクラテスのダイモニオンについて』にあるもので、該当箇所はこのようになっている。

その人はテルプシオンから聞いたそうなのだが、ソクラテスのダイモニオンはくしゃみだと言うのである。しかもそれは自分のくしゃみの場合もあり、他人のくしゃみの場合もある。つまり、他人が、前であれ後ろであれ、右側でくしゃみをしたときには、ソクラテスを行為へと突き動かし、左側の場合は思いとどまらせる。また、自分がくしゃみをしたときには、これからしようとしていることを保証するが、すでに行っていることを控えさせ、妨げる衝動となるのだ。

テルプシオンはソクラテスの弟子であり、『パイドン』にも名前が登場する。

もしこの解釈を採用した上で、プラトンの『弁明』で語られるように「ダイモーンの合図が常に禁止の形であらわれた」というのであれば、ソクラテスが何かしようとすると、しばしば「誰かが左側でくしゃみをした」ということになる。

そして同時に、「けして彼(ソクラテス)の右側、もしくは前後において、くしゃみがされることはなかった」ということにもなる。

ソクラテスの敬神

「ダイモーンの合図=くしゃみ説」は、聞いた瞬間には馬鹿々々しく感じられるが、現代人の我々がすぐにそう判断するほどには、実際には笑止・滑稽なものとは言えない。

ソクラテスはクセノポンの『アナバシス』で、クセノポンにキュロスの遠征に同行すべきかどうか相談された際、「デルポイで神託を訊くように」とアドバイスし、クセノポンが「どの神に供犠し祈願すれば、うまく旅に出立でき、上首尾に帰国できるか」を尋ねたところ、その報告をクセノポンから聞き、「まずは出立すべきかどうかを尋ねるべきだった」と叱っている。

その後の記述の「しかしすでにそのような訊ね方をしてしまった以上、神の命ぜられた通りにせねばならぬ、と言った」(『アナバシス』岩波文庫)というのも、おそらく「ソクラテスが言った」のだろうから、逐一神に伺いを立てるのは、当時の敬神家の常だったのだろう。

何が言いたいかといえば、当時の「敬神」は我々の考える「敬神」とは大きく異なる基準であり、だからこの説を頭から馬鹿にはできないということだ。

プルタルコスと田中美知太郎の見解

しかし、プルタルコスは対話篇の中でこの解釈を肯定的に紹介しているわけではなく、くしゃみ一つで右往左往し、また「くしゃみを聴いた」のを「声を聴いた」と言う、そのような不正直はソクラテスの人物像に合わず、らしくないことだとして否定的であるようだ。

田中も「くしゃみというものが、未開社会において、しばしば前兆として受け取られていたという事実を、見のがすこともできない」としながらも、やはり最終的には否定している。

最後に

私も、実際にダイモーンの合図が「くしゃみ」だったとすれば、彼の身近にいたプラトンやクセノポンのどちらかでも、はっきりそう書いたのではないかと思う。

やはり通例通り、一種の幻聴と解するのが穏当なのだろう。

それにしても面白い説だな、と思ったのでここに紹介した。