ルース・ベネディクトの『菊と刀』の日本人論について

ルース・ベネディクトの『菊と刀』

『菊と刀』の印象

記憶はおぼろげだが、大学時代にこれに出会ったと思う。私は一読してこれに強い印象を覚えた。

今回私はこの記事を書くために『菊と刀』について書いているネット上の幾つかの記事を参照したが、意外にも批判や違和感を覚えたという記事が多いことに驚いた。

そして、そうした批判はほとんどの場合いちいちもっともなもので、これが余計に私を考えさせた。それでは、私が覚えた感動とはいったい何だったのだろう。私はこの本を過大評価していたのだろうか。

そしてしばらく考えると、私はそうした批判が向けられている部分と、私自身が『菊と刀』を評価している点が、まったく食い違っているということに気が付いた。

というのも、色々な他の点でも『菊と刀』は面白い読み物ではあるが、根本的には私はある一点においてだけ『菊と刀』を評価したのであって、例えば有名な「罪の文化と恥の文化の対比」など、私にはまったく思慮の外だったからだ。

そして私自身が『菊と刀』を評価した一点とは、第九章の「人情の世界」で、ベネディクトが日本人の善悪観について見せた直観だった。

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原罪観と日本人

『菊と刀』の「人情の世界」において、ベネディクトは次のような記述をしている。

精神と肉体とは宇宙の対立する二大勢力ではない。そして日本人はこの信条を論理的に押し進めて、世界は善と悪との戦場ではないという結論にまで持ってゆく。サー・ジョージ・サンソムは次のように述べている、「日本人はその歴史のどの時代においても、このような、悪の問題を認識する能力の欠如、もしくはそれと正面から取り組むことを回避する態度を、何らかの程度において保持してきたように思われる」事実日本人は、悪の問題を人生観として承認することを終始こばみ続けてきた。

この記述をあまりにも正面から受け止めるなら、馬鹿々々しいという一語で片付いてしまうだろう。いったい、(それがたとえ隣国や他民族と違うものであれ)善悪を持たないどのような人間集団が考えられるというのだろうか。

だから私が深く心を動かされたのは、そのような表層についての観察ではない。

もしこの如何なる民族も独自の善悪を持たないなどということは在りえないという前提を手放さずに、ベネディクトの直観の正しさを信ずるならば、この一見矛盾した二つの命題はどのような形であれば調和するのだろうか。

それを私は、原罪観の欠如という言葉で表現する。

言い換えるなら、日本人にとって、人間の内部に悪は存在しないということだ。

該当箇所よりもう少し先で、ベネディクトはこうも書いている。

彼らは言う、日本では人間の性質は、生まれつき善であり、信頼できる。それは自己の悪しき半分と戦う必要はない。それが必要とするのは、ただ心の窓を清らかにし、場合場合にふさわしい行ないをすることだけである。もしそれが「けがれた」としても、けがれは容易に取り除かれ、人間の本質である善が再び輝きだす。

文中での「彼ら」とはベネディクトによれば、日本の「近代の仏教家や国家主義の指導者たち」だ。

ここでもまた表層での観察のみに目を向けるなら、このベネディクトの表現は荒唐無稽なものにすぎない。如何なる意味でも「自己の悪しき半分と戦う必要はない」という人間はいないからだ。

たとえば、我々の日々、自分の怠惰さやいい加減さや、時には、犯罪への誘惑とすら戦うこともあるかもしれない。

したがって、我々がここでも表層の観察に留まらないのなら、この記述も前の記述同様、日本人の世界観の中では、人間の内部に潜在的・先駆的な悪が存しないということに力点があると思える。つまり原罪観の否定である。

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日本論・日本人論の不在

そしてこれもまた、『菊と刀』批判に対して覚えた違和感の一つなのだが、ではいったい我々は『菊と刀』を越えるような日本論・日本人論を持ちえたのかどうか、ということだ。

答えは否だろう。『菊と刀』を否定しはするものの、それを越えるような建設的な日本論を、未だに我々日本人は持っていないのである。

日本論・日本人論の不在であるということは、今の日本人には国家観が不足しているということに道を通じている。そしてこれは日本という国が、「自分が何者であるのか分からない」と言っているに等しい。

ほとんどの日本人は関心すら持っていないのではないか。もっとも、敗戦以来の時世を考えれば、それは無理もないのだが、一方で、憲法の改正を前にして、それでよいのだろうか、という不安は残る。

というのも、憲法を改正して「普通の国」になったところで、我々はそこから先、いずこへ向かうつもりなのだろうか。

保守にとっての長い念願を果たした後で、我々が何者であるか知らず、その先の指針をまったく欠いた有様では、そうして念願を達成したというまさにその理由で、我々が途方に暮れてしまうのは目に見えているように思える。

三島由紀夫が『源泉の感情』という対談集の中で福田恆存に対してこう言っている。

日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。僕はアメリカ人にも言うんだけど、「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。

そして建設的な日本論・日本人論を得る、国家観を樹立する、とはまさに、この「日本人は何のためになら死にうるのか」という問いに答えることに他ならないと思える。

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