アルベール・カミュの感受性の特質について

アルベール・カミュとの出会い

中学3年の頃、思春期になって自分を特別な人間だと思いたいという欲望からだろう、私は文学作品をよく読むようになり、そこでアルベール・カミュと出会った。

私はカミュの作品に取り組むほとんどの人がそうであろうように、まず『異邦人』を読んだ。

『異邦人』は私には面白いとは思えなかった。

次に『シーシュポスの神話』を読んだが、もちろんそれで理解が深まったわけではなかった。

この二つの作品についてはこんな思い出がある。

当時、スポーツも勉強もできて、なおかつ性格も温和で優しかったクラスメイトが、『異邦人』について読書感想文のようなものを書くという。

おそらく私が『シーシュポスの神話』は『異邦人』の解説書みたいなものらしい、と言ったのだろうと思うが、私のそれを借りることになった。

彼が私に返却するとき、私が「どうだった?」と尋ねると、彼は「余計わけが分からなくなった」と言った。

私はたぶん虚栄心から、彼よりかは理解が深いふりをしていたかもしれないが、私の二作品に対する印象も、実際には、彼のそれと変わることがなかったのだと思う。

カミュの『手帖』

私がカミュについて理解できたと思えたのは、大学に入り、おそらく神田あたりの古本屋で見つけた、既に絶版になっていたであろう新潮文庫版の『手帖』を安価で(今思えば運よく)買い求めることができたのが切っ掛けとなった。

私は特に、大学からの帰りの電車内でそれを熟読した。

すると、徐々に今までまともに一語も理解できなかったカミュの作品の意味が分かるように思えた。

この感受性の性質

この感受性の性質について、読者に分かってもらうことはとても難しいことだと分かりつつも、無謀にもあえてそれをしてみたいと思う。

私は大学の一時期、(大学に提出するものとしてではなく)自分に対して、この感受性の性質を描写し、その原因や本質について理解するという課題を自分に課した。

そして次のように考えた。

この感受性の特質は、一般に人がそう感じない対象や場面において、こころよさを感じる、という点に、その最大の特徴がある。

その対象や場面とは以下の三つである。

1、生全体の価値や意味が凋落し、目減りして感じられるものを、意識が対象とするときに(表象するときに)、快さを感じる。
2、自己が持つ力を、自発的に放棄するときに、快さを感じる。
3、上記2を、意識が対象とするときに(表象するときに)、快さを感じる。

私は便宜上の理由から、1のような対象を「無明」と、2のような対象を「断念」と名付けた(周知のように、この1の『無明』を、カミュは『不条理』と呼んでいた)。

この命名を適応したなら、1,2,3はそれぞれ、
1、無明を見る(表象する)ときに快さを覚える。
2、断念するときに快さを覚える。
3、断念するのを見る(表象する)ときに快さを覚える。
と言い換えることができる。

具体的にカミュの諸作品から、そのような対象を抜き取ってみる。
また、3は2に帰属できるものであるため、略して、1と2だけを提示する。

1の具体例は短編小説『客』から。

石だけでこの国の四分の三を蔽っていた。街々はそこに生れ、光り輝き、やがて消えていった。人間はそこを通り、愛し合いあるいは喉笛に食いつき合い、やがて死んでいった。

2の具体例は『手帖』からの引用である。

息子を失った昔の拳闘選手。《ひとは地上ではなにものでもない。そしてただただ動きまわるばかりだ。》

また、これらの具体例はほんの一端であって、必ずこの感受性の持ち主がこれらに対して快さを感じるか、というとその限りではない。

そして1,2,3の共通点こそが、この感受性の本質である。

これら三つは、一様に主体の主観的な力の低下を意味している。
(このとき低下するのは、主体の経済力や体力等の具体的な力ではないことから、『主観的な』という形容詞を使っているのである。そのとき低下しているのは、ニーチェの言葉でいうところの『力の意識』である)

そしてこのことから、私はこの感受性を、(カミュの『手帖』によって育った私のそれも含めて)本質的に病的である、と結論づけた。

一方で、何故このような感受性が、カミュや私や、ときにはそれ以外の人に芽生えるのか、その原因については、幾つかの仮説を考えてみたものの、「これ」と思えるようなものを見つけることはできなかった。

また、この感受性の持ち主として、カミュ以外に著名な幾人かの候補を挙げてはみたが、絶対的な確信までは持ちえなかった。

ただ、そうして挙げられた候補の中で、「この人の感受性はかなり類似した特徴を持っている」と私が特に考えたのは、意外に思われるかもしれないが、脚本家の山田太一氏である。

私がそう考えるようになったのは、山田太一氏が書いた『生きるかなしみ』を読んだことが切っ掛けである。

前編を通じてこの感受性の特徴が表れていたし、何より私が驚いたのは、『生きるかなしみ』の最初の章の名前が「断念するということ」であったことだ。

私が名付けた名前とまったく同じものを、山田太一氏も選択していたのだ。

また、強いてもう一人名前を挙げるなら、小説『満潮の時刻』における遠藤周作にも、それが見出されるように思えた。

カミュの作品に見る断念とその帰結

この感受性の特質である断念を徹底して押し進めると、どういうことになるのか(何故、無明の方ではなく断念なのかというと、無明は個人の意志によっては、表象することはできても、押し進めることはできないからだ)。

既に述べた如く、断念とは自己の(主観的)力の意識を自ら手放すことである。

それはつまりある種の自己放棄である。

こうした観点からカミュの作品を眺めると、その登場人物が断念を行なっているということが観察できる。例えば『ペスト』のタルーは、リウーに何故ペストの巻き起こす騒動に首を突っ込むのかと尋ねられた時、こう答えている。

「知りませんね。僕の道徳ですかね、あるいは」
「どんな道徳です、つまり?」
「理解すること、です」

すなわちこの会話から、タルーは断念を「理解」という形式で実践しているということが分かる。何故なら「理解する」とは、対象を一方的に解釈して、その解釈に基づいて裁く権利を放棄させるものだからである。だからこそ「理解する」という言葉には、常に、「許す」というニュアンスが含まれる。
(※これは全ての『断念』がイコール『理解』であることを意味していない。つまり、『ペスト』のタルーの場合は『理解』という形で断念が実践されている、ということである。例えば『果物を食べる』という行為のバリュエーションの一つとして『林檎を食べる』が存在しているようなものである。この比喩の場合、『果物』が『断念』に、『林檎』が『理解』に対応している)

そしてそのような断念を徹底して押し進めた者は結局何者になるのだろうか。カミュはそれを「聖者」という言葉で要約して表現している。

「結局」と、淡々たる調子で、タルーはいった。「僕が心をひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ」

タルーは作中で「聖者」になることなく、その前に命を落としてしまうが、我々はカミュの他の作品、『ヨナ』において、かなり「聖者」に近い人物像を見い出すことができる。すなわち主人公のヨナその人である。

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