バタイユ『エロティシズム』における「禁止と侵犯」理論が正しい理由

こんなこと書いてアクセス来るかなーとか、誰か読むのかなーとか思いつつ書く。

私はバタイユの『エロティシズム』を読んで、その論旨が基本的に正しいということを確信している。

私が言っているのはもちろん、バタイユの『エロティシズム』における禁止と侵犯の理論である。

一応あらかじめ断っておくが、この記事は激烈に不親切な書き方をしている。何の予備知識もない人が読んだ場合にはまったく理解できないだろうと思う。

バタイユの『エロティシズム』

それでは始める。

まず私はバタイユの『エロティシズム』には、一から十まで非の付け所がない、というわけではない。

しかしその基本的な論旨に関しては、重要な、無視することのできないものだと思う。

ただし、私は『エロティシズム』の宗教的な部分については理解できない。

この「理解できない」は文字通りの「理解できない」である。

要するにこの「理解できない」は、批判的な意味での「理解できない」ということではなく、文字通り「私にはよく分からない」ということである。

エロティシズムを宗教的な事柄と結びつけるために必要な経験が、私には明らかに不足している。

それは裏返せば実のところ、「たぶんバタイユが言ってることは正しいんだろうな」ということも含んでいるが。

しかし繰り返すが、宗教的なものと結びついたエロティシズムについては、私にはバタイユが持っていたような経験が明らかに不足しているので、お手上げである。

同様に「死は禁止の対象である」と言っているが、禁止の対象としての死についても触れない。私の理解が及ばないからである。

「禁止と侵犯」理論が正しい理由

ここから本題だが、私がバタイユの『エロティシズム』の禁止と侵犯の理論が正しい、という時に主張したいのは、バタイユの「禁止と侵犯が人間の性を規定している」という理論が正しい、というまさにそのことである。

そしてこの禁止と侵犯は、禁止が存在している時に侵犯が存在し始めるのだから(生があることで死があるように)、禁止は侵犯よりも重要であり、言い換えれば禁止こそが人間の性にとって本質的であるということが分かる。

「禁止」の定義

では具体的に「禁止」とは何を意味しているのか?

『エロティシズム』の中で、「禁止」というワードは何度も繰り返されるが、いったい具体的に何を意味しているのか、ということは実のところ非常に分かりづらい。

私は、このある程度多義的である「禁止」を、端的に定義するのなら、このように言えると思う。

禁止とは「公空間からの排除」を意味している、と。

例えばバタイユが「死体や性的肉体が禁止の対象である」という時、死体や裸体が公的な空間ではなるべく視認されないように配慮される、ということを指している。

ゆえに禁止は端的には「公空間からの排除」として定義できると言える。

女性の乳房

そこでなぜ私がバタイユの主張である「禁止が人間の性を規定している」という主張が正しいと主張するかといえば、その論拠は一つしかない。

しかしその一つだけで十分である。

また私はそれを別の記事でも書いたが、それをここでも繰り返す。

それは「女性の乳房」に着目した場合に、禁止理論は正しいと断言できるということである。

というのも、比較的気候が温暖な地域にある文化圏では、女性は乳房を露出していることが多い。

ところが、その地域の男たちは、我々の文化圏における男たちのように、その露出している女性の乳房にほとんど何の反応も起こさないのである。

もし我々の文化圏で女性がそのように過ごしていれば、どのような反応を引き起こすかは自明だろう。

つまり、女性の乳房という、我々の文化圏では通常性的なものと見なされているものが、乳房を露出する文化圏では、性的なものと見なされていないのである。

そしてこの「乳房を露出しない」と「乳房を露出する」が何を意味しているかといえば、「禁止されている(公空間から排除されている)」と「禁止されていない(公空間から排除されていない)」の違いであることは明らかだ。

女性の乳房という同一のものが、禁止されているか禁止されていないかで、性的なものであるか性的なものでないか、という点で分岐しているのである。

ということで、禁止が我々の性を規定しているというバタイユの主張の正しさは明らかである。

また付言するならば、女性が乳房を露出する文化圏での女性の乳房を、女性が乳房を露出しない文化圏に暮らす我々が見ている場合であっても、同様に性的なものと見なしていないこともあわせて指摘しておきたい。

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