義人アリステイデス【テミストクレスの宿敵】

ちくま学芸文庫で『プルタルコス英雄伝』を読んだ時、とりわけ鮮烈な印象を受けたのはアテナイの政治家で、「正義の人」と呼ばれたアリステイデスだった。

私は、このような生き方ができるのか、こんな人がかつて本当に存在していたのか、と驚きと感動を覚え、その印象は長い間胸を去らなかった。

義人アリステイデス

テミストクレスの宿敵

古代ギリシャの各ポリスは、スパルタのように父祖伝来の政体をかたくなに守る国でなければ、ほとんどの場合、政治家は貴族派と民衆派に分かれていた。

アリステイデスの祖国であるアテナイもその例にもれなかったが、その時代の民衆派の代表こそ、アリステイデスのライバルであったテミストクレスであり、一方でアリステイデスは貴族派に属していた。

『英雄伝』の著者プルタルコスは、アリステイデスが貴族派になった理由として、スパルタの伝説的な立法者リュクルゴスに対する尊敬の念に発していたと述べている。

古代ギリシャの二大ポリスといえばアテナイとスパルタだが、リュクルゴスはそのスパルタの伝説的立法者である。スパルタの長い繁栄は、リュクルゴスが...

民衆派の頭目であったテミストクレスは、祖国の危機を救った偉大な政治家でもあったが、同時に狡猾で抜目のない策士であり、友人のためであれば不正なことでも行うようなことがあったため、正義心に富んだアリステイデスとは常に衝突した。

例えば、『英雄伝』にはこのようなエピソードがある。人がテミストクレスに「君が公平無私ならば、アテナイを見事に治められよう」と言うと、彼はこう答えた。

「そいつはまっぴらだ。自分の友人たちに、他のなじみのうすい連中よりも差をつけて、なに一つくれてやれぬような椅子なんぞにすわっているのはね」

二人の仲違いは、最初は美少年をめぐる恋のさや当てから始まった、と『英雄伝』では書かれている。美少年はケオス出身のステシラオスだったが、少年の容色が衰えても、二人の競争心はそのまま収まらなかった。

二人は民会で互いの出した提案を潰し合った。時にアリステイデスは、町に対し有利な提案でもテミストクレスのアリステイデスへの敵愾心から潰されてしまうので、あえて代役を立てて提案することさえあったという。

またアリステイデスがテミストクレスの公金横領の不正を暴いた時には、テミストクレスは逆に仲間と結託し、アリステイデスに罪をなすりつけ、彼はあやうく罰金を科されるところであった。

「正義の人」

アリステイデスの公正と無私は、例えばこのようなエピソードに現れている。

彼が民会で一つの提案をし、それに反対した者の演説もあったが、首尾よく運んでいよいよ賛否を問う段になった。ところが、アリステイデスは反対意見が切っ掛けでその提案の欠陥に気づくと、決議にかけることなく自ら提案を取り下げてしまった。

舞台でアイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』が演じられた時のことである。

「かの人ののぞみは正しい人と評判をとることではない。そのふかぶかとした胸中の畦土(あぜつち)から芽ぶく、かしこい分別の果実を刈りいれて、真実、正しい人となることなのだ」が語られると、見物人はいっせいにアリステイデスを見つめたという話だ。このような徳にふさわしい人物は、彼をおいて他にはないと思ったからであった。

他にも、こんな話もある。ペルシア王のダリウス(ダレイオス1世)がダティスを司令官とする軍をマラトンに派遣した時、アテナイ人は10人の将軍を選出したが、指揮権は1日おきに持ち回りにされた。

しかしアリステイデスは自分の番が来ると、将軍の中でもっとも重んじられていたミルティアディスに指揮権を譲って、自分より優れた者に従うのは恥ではないと他の将軍たちに説き、無用な競争心を戒めることでミルティアディスに権力を集中することに成功した。

アリステイデスのこの振る舞いは、結果的にミルティアディスがマラトンの戦いで指揮をとってギリシャ軍が大勝する伏線となった。

陶片追放

ギリシャでは、特定の市民が名声を得て権勢が高まると、僭主になる危険性があるという名目で、しかし実際にはしばしば人々の嫉妬を買って、陶片追放によってポリスを追われるのが常だった。

陶片追放とは、陶器の破片に追放すべき人の名を書き込んで、(投票者全体の人数が六千人に達しない場合には無効になるが)もっとも多くの票を得た者が10年間祖国を追われるという制度であった。ただし財産までは没収されない。

義人と呼ばれたアリステイデスも、名声を高めたためにこの制度の餌食になった。しかしこの時のエピソードも面白い。

陶片追放の対象者を決める時の集まりで、田舎から来たある人が、その人をアリステイデスだと知らずに話しかけた。自分は読み書きができないから、この陶器の欠片に「アリステイデス」と書いてくれ、と言うのである。

アリステイデスはその人と面識もなかったし、もちろん恨みを買った覚えなど全くなかったために、驚いて「そのアリステイデスという人は、あんたに何か酷いことをしたのかね?」と尋ねた。

「いや、なんにもありゃしねえ。でえいち、おらあ、そんな男知りもしねえだが、ただ、どっこさ行ってもよ、『正義の人』『正義の人』って聞くもんでさあ、腹が立ってなんねえだからよ」と言った。これを聞いてアリステイデスは一言もこたえず陶片に自分の名を書くと、そのまま男にもどしたそうだ。

こうしてアリステイデスは追放されることになった。いよいよ町を去る時、彼は天を仰いで祈った。「神様、どうか、このアテナイの者たちが再びアリステイデスを思い出さずにはいられぬ時が来ませんように」

サラミスの海戦

しかし、そのような時は3年後に訪れた。

ペルシア王クセルクセスが大軍を率いて到来したのである。

アテナイ人は陶片追放をとりやめ、追放者の帰国を決議した。しかしこれは、そうしなければアリステイデスが多数のアテナイ人をかどわかし、ペルシア側につかせるのではないかと疑ったためとされている。

プルタルコスはこれを、この期に及んでアリステイデスという人を理解していない、と述べている。その決議の前でさえ、彼はたえず「ギリシャの自由を守れ」とギリシャ人を鼓舞していたからだ。

サラミスの海戦の前、ギリシャ連合艦隊はサラミス島に逗留していたが、サラミス島は既にペルシャ軍によって包囲されていた。アリステイデスは包囲されていることを教えるため、ペルシャ軍の囲いを突っ切って訪れた。

そこでアリステイデスはテミストクレスに、今までしていたような「角の突合せ」を止めようと言い、そしてまたテミストクレスがこの海峡においてペルシア軍と決戦しようとしている判断を正しいと認めた。既にペルシャ軍は島を包囲しているからだ。テミストクレスも同意し、このライバルとの協力を喜んだ。

ギリシャ連合艦隊の司令官は、スパルタ人のエウリュビアデスだった。アリステイデスの公正と無私は多くの人に知られていたから、エウリュビアデスの信頼も厚かった。

将軍会議はこのようになった。テミストクレスが会議で再びこの海峡での決戦を提案すると、コリント人のクレオクリテスが異議を唱え、「アリステイデス殿は黙って座っておられる。貴殿の提案が不服である証拠だ」とアリステイデスを引き合いに出して反論した。

おそらく、テミストクレスとの長い対立関係を知っていたから、アリステイデスの信望の厚さを利用してテミストクレスに反駁しようとしたのだろう。

しかしアリステイデスは「テミストクレスの案が気に食わなければ、私は黙ってはいなかったろう。私が沈黙していたのは、彼に好感を持っているからではなく、彼の意見を『なるほど』と思ったからだ」と言った。

その後、サラミスの海戦でギリシャ連合軍は大勝し、クセルクセスはペルシャへと逃げ帰って行った。しかしペルシャの将軍マルドニオスは、まだ30万の軍勢を擁して留まっていた。

プラタイアの戦い

マルドニオスのペルシャ軍と、スパルタ人パウサニアスを指揮官とするギリシャ連合軍が衝突した際、ギリシャ側のメガラ軍は、敵騎兵によって集中攻撃を受けていた。これをアリステイデスは、オリュンピドロスというアテナイ人に三百の兵士をつけて救援に向かわせた。

この時、彼らはペルシャ軍の騎兵隊長マシスティオスという人物を討ち取っている。

この大成果がギリシャ軍にわかったのは敵の残したしかばねのおびただしさからではなく(その数は多くはなかったのだから)、ペルシャ軍のはげしいなげきぶりによってだった。
彼らはマシスティオスに手向けてみずからの髪をそり、馬とラバのたてがみをきり、その泣きさけぶ声はボイオティアの平原一面をつつみこんだ。それは勇気と力においてマルドニオスにつぐ第一等の人物を失ったなげきであった。

このプラタイアの戦いでは、両軍の占い師はともに「攻める者は敗れ、守る者が勝つ」という予言を出したために、どちらが先に攻撃してしまうか、我慢比べのようになった。

ギリシャ連合軍のスパルタの部隊では、直前に行われたアテナイ軍との戦陣の取り替えが不服なスパルタの兵士によっていさかいが起こった。そこへ、マルドニオスはペルシャ軍の糧食が尽きそうだったために、我慢しきれずにギリシャ軍を攻撃する。

しかしスパルタ軍では、占いの吉兆が得られないために戦を始めることができない。ついに犠牲の吉兆が現れると、全軍が攻撃を開始した。

アテナイ軍はペルシャ側についていたテーベ軍を打ち破り、スパルタ軍はペルシャ軍とぶつかったが、この時スパルタ人のアエイムネストスは、ペルシャの総大将マルドニオスの頭に石をぶつけて殺害した。こうしてギリシャ連合軍が勝利した。

その戦勝後の会議で殊勲賞をめぐって争いになった時も、アリステイデスは、全軍が心置きなく戦えるよう土地を提供したプラタイア人に第一等を与える提案をし、それにスパルタのパウサニアスも賛同したために、会議は丸く収まった。

アリステイデスの公平さ

ペルシャとの戦争はまだ継続されたが、総指揮官であったスパルタのパウサニアスは、苛酷な振る舞いのために次第に人望を失い、更迭されてしまった。

そのことでギリシャの各ポリスが出していた戦時の貢納金(こうのうきん)の割当ても変えられることになった。この仕事にアテナイからアリステイデスが派遣されると、彼はそれぞれ町の土地・収入、格式・支払い能力に応じて貢納額を取り決めた。彼は大きな権限を委ねられたが、その権限をまったく私(わたくし)することがなかったので、貧乏なままであった。

そこで、むかしの人がクロノスの時代を黄金時代としてほめうたったように、アテナイと同盟を結ぶ町の人々もアリステイデス時代の貢納金をほめたたえ、これをギリシアの幸運と呼んだ。ほどなく、その額が倍にされ、さらに三倍になったとき、彼らは、とりわけ、この感を深くしたにちがいない。

アリステイデスはテミストクレスに対してさえ公平だった。彼はテミストクレスと敵対していたために陶片追放にあったが、逆にテミストクレスが追放されることになっても、他の連中のようにテミストクレスを攻撃するようなことはなかったのである。

哲学者のプラトンは、その著書『ゴルギアス』で、「アテナイで、たかい名声にかがやく人物のうち、頭のさがるのはただひとり、アリステイデスだけだ」と述べている。

プルタルコスの『英雄伝』では、ソクラテスの悪妻のクサンティッペとは別の、もう一人の妻ミュルトはアリステイデスの孫娘で、暮らしに窮していたところをソクラテスが迎え入れた、という説を紹介している。「義人」と倫理哲学の創始者のこの繋がりは興味深い。

アリステイデスの死に際については詳しく知られていない。公務でアテナイの外にいる時に死んだとも、町の者に敬われながら年老いて死んだともいわれている。

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