土居健郎の『甘えの構造』のぬるさ

土居健郎の『甘えの構造』について書く。

土居健郎の『甘えの構造』

以前から私は「甘え」という概念に強い関心があった。だからもう数年前にもなるが、有名な土井健郎の『甘えの構造』を買い求めて読んだことがある。

『甘えの構造』の感想

私は読んでみて、正直いって落胆した。

何だ、この程度でこの国では「古典的名著」のような呼ばわれ方をしてしまうのか、という感想を持った。

「甘え」を実体験から考察する

私の一番の不満は、土居がそもそも甘えという感情は観測者の視座によって大きく変化してしまうということを見落としていることだ。

たぶんこの説明はかなり分かりにくいと思うので、具体的に自分の実体験から説明する。

※私が「甘えかどうかは当人以外の人が決める」と書かずに、わざわざ「観測者の視座」という回りくどい表現をしたのは、この「甘えた」(と解しうる行動を取ったり情緒を持った)当人自身も「観測者」でありうるためだ。つまり、その対象の行動や情緒を考えたり解釈したりするときには、誰もが「観測者」になりうるからだ。

自分の体験から

私は、特に自分より若い男性から「甘えっけ」(甘えっ気)を感じるのが極端に苦手なところがある。

ある時、当時よく通っていた全国チェーンの中華料理屋に行った。

その店はホールでの接客を若者が担当することが多いのだが、私が注文してから料理が届くと、いつものように接客担当の若い店員が「ご注文はお揃いでしょうか?」と訊いてくる。

もちろんいつも返事はしていたが、その時、何か考え事をしていたのか、疲れていたのか分からないが私は返事をしなかった。

店員は別にあらためて問い直さなかったと思う。

私はよく通っていたし、マニュアルであるから訊いているだけで、注文が揃っていることは店員も知っているからだ。

私は食べ終わって料金を払い店を出る時、違和感を覚えた。

レジの店員が「ありがとうございました」と言わなかったからだ。

そこで私は「ご注文はお揃いでしょうか?」という問いかけに返事をしなかったことに思い当たった。

偶然の可能性

私はあまり人の顔を見ない癖があるので、そのレジを担当した若者と接客した時の店員が同じ人物だったかは正直分からない。

加えて私が問いかけに返事をしなかったことに思い当たったのも、店員が私のテーブルから去った直後ではなく店を出てからのことで、それ自体が私の勘違いかもしれない。

そもそも出店する時の挨拶を店員がしなかったとしても、私が問いかけに返事をしなかったことと同じく悪意のない偶然である可能性もある。

だがそうしたことはこのエピソードを持ち出した理由とあまり関係がないので無視して話を進める。

「甘えっけ」

私は店を出てから、たぶん若い店員が問いかけに返事をしなかった私に腹を立てて礼を言わなかったのだろう、と反射的に考えた。

そしてそうした若い店員の接客の所作から、「甘えっけ」を感じた。

気持ち悪く思った私は、それ以来そのお店に二度と行かなかった。

甘えの観測者視点

私と同じく店員の行動に「甘えっけ」を感じる人も稀にはいるだろうし、返事をしなかった私に発端があるのだから悪いのは私だと感じる人もいると思う。

そもそもそうした行動を「甘え」という尺度で測ること自体に違和感がある人もいると思う。

私自身、店員の行動を「甘えている」と断じているわけではなく、「私にはそう感じられた」と書いているだけだ。

私のした推論が正しかったとしても、店員の心情それ自体は、「甘え」というよりは単なる「不機嫌」や「不満」だ。

私が「甘えは観測者の視座によって変化してしまう」というのは要するにそういうことだ。

許容ラインの変化

例えば家庭で許容されることが学校では「甘え」と見なされたり、大学や高校で許容されることが社会では「甘え」と見なされるのも同じ理由だと思える。

要は「ここまでは許容される」つまり「甘えとは見なさない」というラインが、家庭・学校・社会という各場において変化するし、観測者の個性によっても変化してしまうのだ。

私には、それ自体として存在するわけではない「甘え」という感情を、土居が自律的に存在しているもののように扱っているのがどうにも気に食わなかったのだ。

土居健郎は、「甘え」という概念は日本文化に特有のものだと主張し、それによって日本人の行動原理の少なくともある一部を説明することができるはずだ...

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