土居健郎の甘え観と日本文化、義理は「甘えの断念」によって成立する

土居健郎は、「甘え」という概念は日本文化に特有のものだと主張し、それによって日本人の行動原理の少なくともある一部を説明することができるはずだと考えた。

しかし、それは明らかな短慮であったと思える。

土居健郎の甘え観と日本文化

「甘え」という日本語

「甘え」という語が日本語だけにあるのかは一旦置くとしても、そもそも、「甘え」という語が日本語にしかなければ「甘え」は日本人に特有なのか。

ある語が生まれるというのは、それが意識化された時に生まれるのであって、それが存在していればそれを表現する語が生まれるかのような速断は、底浅いものだと思える。

例えば、ハイデッガーが「世界内存在」と言わなければ、人間は世界の内部に存在しないのだろうか。そんなことはないだろう。ハイデッガーが「世界内存在」という語を開発する前から、人間は世界の内部に存在している。

「甘え」の定義と状況

私はひとまず甘えを「相手への信頼や愛情に基づいた権利要求」と定義したい。

甘えが受け容れられる場合、甘える者、甘えられる者の双方は、甘えを許される正当な権利と理解している。そしてしばしばこの時、甘えは意識化されない。何故なら意識する必要がないからだ。

そこで表現される語も、甘える側は「~を買ってよ」とか「~してほしいな」とかで、甘えられる側も「いいよ」とか「構わないよ」で済んでしまう。

一方で甘えが受け入れられない場合、甘える者は甘える時にそれを正当な権利と理解しており、だからこそ甘えたのだが、「甘えられる者」はそうではない。

こうした場合、「甘え」は、(しばしば強い不快感や怒りとともに)意識化され、したがって言語表現もされやすい。例えば、甘えられる側は甘える側の甘えを不快に思い、しばしば「甘えるな」という烈しい言葉を投げかける。

「それが否定的に受け取られる場合の方が、甘えが意識化されやすく、したがって言葉としての表現も現れやすい」

この一事だけを取っても、土居の「甘えという語は日本語に特有で、だから日本文化の特質を規定するものだ」という見解は全く的外れであるということが分かる。

何故なら「甘えが禁じられる場面が多いからこそ、国語(日本語)内に『甘え』という語が存在するのだ」という全く逆の推論が成り立ち得るからだ。

うっすらした日本否定

このような浅薄な日本文化考察は、別に土居特有のものではない。

アカデミックな学問の場に限らず、通俗的な場面であっても、ある否定的なものについて(『甘え』も原則的には否定的なものだ)「こんなことをしているのは日本だけだ」と表現することは珍しくない。

というより聖徳太子の時代から、ある外来のものを輸入し、在来のものを否定するということは絶えず行われてきたのだから、考えようによっては「日本文化の否定」というもの自体が日本文化の一面を表しているといっても過言ではないだろう。

土居の「甘え観」に滲(にじ)む「うっすらした日本否定」は、その外来のものと在来のものの摩擦と葛藤によって練り上げられた日本文化と、そして敗戦によって卑屈になった日本人の自己否定的な面によって二重に後押しされたものだ。

要は土居の「甘え観」には真面目な考察に耐えうるようなものは何もないということだ。

義理は「甘えの断念」によって成立する

私は先ほど甘えを「相手への信頼や愛情に基づいた権利要求」と定義した。

ここで興味深いのは、「義理」というそれこそ日本特有の概念が「甘えを断念する」ことによって成立するものだということだ。

義理は、「自分が恩恵をこうむるような何かを、人様にしてもらうことによって作られた心の負債」と規定できる。つまり「行為の貸し借り」こそが義理の本質なのである。

逆に「甘え」は権利要求であり、その「してもらうこと」は、文字通り「貸される」のではなく「貰える」のであり、したがって「返報の義務」を負わないものだが、義理はそうではない。

私が「義理を負う」場合、私が他者に「今してもらったこと」や「過去にしてもらったこと」は心の負債となり、「いつかお返しをしなければならないこと」として私の心に存在することになる。そこには「甘えの断念」が存在している。

それはまさに土居が日本文化について考えたこととは真逆の事態だ。

土居健郎の『甘えの構造』について書く。 土居健郎の『甘えの構造』 以前から私は「甘え」という概念に強い関心があった。だからもう数年前にも...

フォローする